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雪のお城

 その日は朝から雪が降っていました。

 十歳だった私は、マンションの窓から見える雪景色を見て興奮していました。
 普段は私を憂鬱な気分にさせる高層ビルが、真っ白に染められ、輝いているところを見るのは気分がよかったです。そして同時に、相も変わらず冷め切った母の態度に失望した事もよく覚えています。雪が降っている、と私が声を弾ませても、外を見もせず、そうなの、とだけ呟きました。
 私は母に、母らしい事など何もしてもらった記憶がありません。母は父が出て行ってからは、抜け殻のようになってしまい、感情を滅多に見せなくなっていました。夜中に泣いていたのを聞いたことがありますが、それが夢の中の出来事なのか、本当の出来事なのか記憶が定かではありません。
 私は三歳下の妹ともに、マンションを飛び出し、街の中心の公園へと出かけました。
 人の気配はありませんでした。普段から静かな街でした。大量の雪が降り積もっている事もあり、現実とは思えないほど静まり返っていました。
 息も凍るような寒さが現実感の無さに拍車をかけていました。私と妹は、まだ誰も踏みしめていない雪に、足跡をつけながら歩きました。
 誰もいない公園で、雪合戦をし、それに飽きると、競うように雪だるまを作り始めました。
 私は胴体を作り終えると、頭を作り始めました。
 雪だるまを作り終えると、雪で小さな雪のお城を作り始めました。
 顔を上げると、遠くに私たちが住む二十階建てのマンションが、雪で霞んでいました。もうあそこには戻りたくはないと、私は思いました。
 母の元を去るとなると、父の元へ行くしかありません。父は母よりいくぶん穏やかな性格でしたが、残念ながら彼もまた私たちの事を好きではありません。
 私が雪のお城を作る事を中断していると、妹が雪玉を背後から投げてきました。振り返ると、妹が笑っていました。
 私が無視すると、掌の上にある雪玉を無言で雪の上に捨てました。
 私たちは遊ぶ事を止めました。
 雪が降り積もる微かな音が聴こえるほど、周囲は静かになりました。動くものは何もありませんでした。
 遠くに橙色の光を放ちながら動く除雪車が見えましたが、すぐに吹雪の中に消えました。
 私たちは雪の上に倒れこみ、空を見上げました。この街が自分たちのものになった気がして、少し気分がよかったです。
 見上げていると、灰色の空に舞っている白い雪の一つ一つが、少しづつ大きくなってゆくのがわかりました。降る量も増えていました。頻繁に顔から雪を払っていないと、顔にうっすらと氷の層ができてしまうほどでした。
「氷の女王がやってくる……」
 妹の言葉に反応し、私は身を起こしました。
 顔の半分を雪に覆われた状態で、妹は笑っていました。氷の女王とは、子供向け映画の登場人物です。雪のお城に住んでいます。私や妹の年齢の子供を怖がらせるには少し絵柄が明るかったのですが、映画の対象年齢、四歳の時には、私を震え上がらせるには十分でした。
「風邪ひくぞ……」
 私が忠告しても、妹は顔から雪を払う事はしなかったので、表情が判別しづらくなりました。
「兄ちゃん。逃げたほうがいいよ……」
 辛うじて笑っているのがわかりました。
 私は立ち上がり、妹の顔の雪を払いました。
 素顔を曝した妹は笑いを止め、私の顔をじっと見つめました。
「大丈夫。何も来ないよ。あれはただの作り話だよ」
 私は妹にそう言いました。
 あれほど怖がっていたのに、映画の筋はほとんど忘れてしまっていました。女王がやってくると、雪が猛烈に強くなった事だけは覚えていました。
 妹と話している間も、雪は激しさを増していました。妹の傍らにあった雪だるまは降り注ぐ雪を被り、丸みを失い、ささくれ立っていました。雪のお城は雪の中に消えていました。
 私は妹の隣に横たわりました。
 降り積もる雪を払わなかったので、私たちの姿は雪に埋もれていきました。
 眠気を覚えました。
 寒さも感じなかったので、このままそこにいても良い気がしました。あの冷たいマンションの一室よりも、雪の中の方が温かく感じられました。
 私は目を閉じました。
 その時、暗闇の中から何かが聞こえました。私の鼓膜に音が伝わってきました。遠くから、私たちに近づく音。雪を踏みしめる音でした。
「誰か来る……」
 妹が起き上りました。私も起き上りました。雪でほとんど何も見えませんでしたが、ゆらゆらと揺れながら、こちらに歩いてくる人影が辛うじて見えました。
「母さんだ……」
 妹が言いました。
 確かに母に見えました。母は背が高いので、少し離れた状態でも母である事がわかりました。私は自分が幻覚を見ているのだろうと思いました。雪で体温が下がり、強い眠気もありました。
 人影は厳かな音を立て、雪の上に足跡を刻みながら、私たちに近づいてきました。その顔は、確かに母のものでした。
 母が笑顔を浮かべている姿を私は初めて見ました。だから、絶対に母ではないと思いました。
「どうしたの?」
 私が問いかけると、母は赤ら顔で微笑みました。呂律もまわっていなかったです。
「心配になったに決まってるでしょ」
 私たちは、雪の中から起き上がり、母の長い黒髪に雪が次々にこびりつき白く浸食されていく様を眺めていました。私はいつもの母ではないと思ったし、母もきっと私の事をいつもの私と見ていないだろうと思いました。お互いに幻覚をみているような気分だったと思います。
「どうしたの? 突然」
 口を開くだけで雪が入ってきました。 
「だって、今日はクリスマスだから」
 これがありのままの母なのか、私たちが幻覚を見ているのか、私にはわからりませんでした。いずれにせよ、これが一時的なものなのだと私は感じていました。私は母に近づこうとする妹の手を掴みました。
「まだ、もうすこし遊んでいくよ」
 私がそう言うと、母はゆっくりと髪の雪を払いました。
「戻ってくるのよね?」
 私は俯いて何も答えませんでした。戻りたくはないが、他に行く場所もありませんでした。
「母さんじゃない……」
 思わず言ってしまいました。母に対する明確な拒絶の言葉でした。他に居場所がない私のせめてもの抵抗だったのだろうと思います。母が酔っていたのだと私は思いました。少し気分が良いからといって、一時的に母らしく振舞う母を、私は許せなかったのだと思います。
「そうかもね……」
 母は雪を払う手を止めました。母自身も、自分が何者か、わかっていなかったのかったのかもしれません。
「でも、覚えておいて」
「何を?」
「私が……。あんたたちを愛しているという事を」
 雪で凍り付いた睫毛の奥にある目は、濁りが一切なく、あの母の目とはとても思えませんでした。私が何か言葉を発しようと思ったが、何も言えませんでした。
 母は吹雪の中へと消えていきました。
「兄ちゃん。あれは母さんだったの?」
 妹には、今見たものが何なのか、理解できないようでした。
「さあね」
 母が去ると、雪の勢いは徐々に弱まり、しばらくすると粉雪となりました。曇り空が晴れると、雪は止みました。母の足跡は全て消えていました。私は雪で消えたのかと思いましたが、最初から足跡が無かったようにも思えました。
 
 私たちが家に帰ると、母は私たちが出かける時と同じ格好で座っていました。
「遅かったじゃない」
 母はぶっきらぼうに言いました。 
 妙な事にお酒の匂いはしませんでした。
「母さんじゃなかったのかな?」
 と私が言うと、
「何の事?」
 と妹は言いました。

 あれから二十年以上たちましたが、私はあの時ほどの吹雪を体験したことがありません。
 あれほどの不思議な体験をしたにも関わらず、妹は当時の事を全く覚えていないのです。
 三年前の春、母が亡くなりました。
 結局、最後まで母との関係は良くないままでした。なんとか歩み寄ろうとしましたが、駄目でした。
 私は今、東京で会社員をしています。大人になれば、何かが変わるかと思っていましたが、何も変わりませんでした。十歳の時と同じような日々を送っています。結婚はしましたがすぐに離婚しました。仕事もすぐに辞めてしまいます。四十を超え、母と同じく、アルコールが手放せなくなってきました。
 夜中、特に雪が降る夜は考えてしまうのです。
 もし、あの時、母らしきものを受け入れていれば、きっと全ては変わっていたのではないか、と。

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