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ポモドーロ

 恭司は実家の家庭菜園の中に分け入ると、掌に収まる適当な果実を見つけ出し、力を入れて握りつぶした。極小の種を含んだ果肉が液体となって、掌の中から溢れて土の上に落ちた。一体何の野菜の実かは分からないが、妙にひんやりとしていたのが印象に残った。恭司は野菜を握りつぶす事で、気分の悪さを自分自身に対して表現した。
 陽に照らされた菜園の土を見ながら、人から言われるように、自分でも感情表現が上手くないと思った。少し変わっていると言われるのは慣れているが、こうやって実際に下手な表現を見てしまうと、少し愕然とする。
 二十一世紀の最初の年の春、恭司は大学の休みを利用して地元に帰っていたが、気分と同様に家族との折り合いも相変わらず悪かった。
 五十歳になる父は、歯医者をつがなかった恭司に対してあまり良い感情を抱いていなかったし、恭司は歯医者や父には嫌な思い出しかなかった。父の歯科医院は駅前の小洒落た小さな建物にあり、中に入ると、リンゴやブドウのプラスチック製のオブジェが飾ってあり、妙に明るくて、それでいて馴れ馴れしい印象を恭司に与えた。
 父親は人当たりが良く、痛みを与える職業にもかかわらず、子供たちにも人気だった。父の言葉は巧みで心地よく、その語りかけは、不快な痛みを軽減させる効果があった。皮肉にも息子である恭司には、その言葉の力は限定的だった。表面的な心地よさを感じさせはするのだが、常に息子の何かを抉ってしまう。恭司は成績優秀だったが、飽和気味の歯医者に未来は無いと考え、早々に将来の選択肢から家業を外した。法律を学びたいと思い、一流と呼ばれる大学の法学部に進学したが、父親がそれを褒める事はなかった。
 外の空気を吸いたかったし、家にいたくはなかったので、煙草を買ってくると言って家を出た。庭の家庭菜園に入って、野菜を握りつぶす予定はなく、完全に一時の気まぐれだった。恭司は自分でもこの突飛な行動に驚いて、最近の自分の考えが自分でもよく分からなくなっている事に気づく。
 田舎なのでコンビニエンスストアまでそれなりの距離がある。家を出てゆるやかな坂を上り、県道を渡らなければならない。県道にかかる横断歩道を待っている時、恭司は眩暈に襲われた。肌は三月のひんやりとした空気を感じなくなり、全身がぬるくて、だるくなった。
 恭司はアスファルトに座り込み、呼吸を整え少し待ったが、回復の気配はない。あの持病の発作なのは間違いなく、歯医者には治せない病気だった。内臓の機能障害と言われているが、原因ははっきりとしなかった。
 その時、恭司の目の前で一台の車が止まった。赤い小さな軽乗用車で、ポモドーロという車種だった。イタリア語でトマトを意味するそうだ。恭司はあまり車に詳しくないが、奇妙な名前だったので印象に残り、その名前は記憶の底にあった。若葉マークがボンネットに二枚ぐらい張られていて、過剰なぐらいに初心者であることを強調している。きっと後ろにも何枚か張られているはずだ。恭司が呆然としていると、小さい音がしてドアが開き、中から明るい声がした。
「どうしたの?」
 聞き覚えのある声だった。
「久しぶり」
 恭司は力ない声で応えた。乗っていたのは、大きな眼鏡をかけた、二十歳の幼馴染の理恵だった。
 車の免許をとったらしい。恭司も免許をとろうと夏に山梨まで合宿に行ったが、教官と喧嘩をして免許はとれなかった。彼女と会うのは、高校卒業以来だった。彼女はこの町に残り、恭司は東京の大学に行った。彼女は地元の教習所に通い、免許をとったのだろう。最終試験は、公道の道順を覚えなくてはならないので、地元でとったほうが有利だと父には言われていた。
「大丈夫だ」
 恭司はゆっくりと立ち上がるが、足元が柔らかい泥にでもなったようで、まともに立っている事が出来なかった。久しぶりに見ることもあって理恵の顔は過去の記憶とすこし違って、靄がかかったようにぼんやりとしていた。
「家まで送っていこうか?」
 理恵の申し出に対して、恭司は首を振った。
「お前は、何やってるの?」
「別に。ただ、ドライブ」
「練習?」
「まあね」
 恭司は話の最中も、眠くて仕方なく、そのままアスファルトに倒れ込みそうになる。この病気を観てもらうには、町医者では無理で、隣町の総合病院までいかなければならない。このあたりでは一番大きい十階建ての病院だった。病院の周囲には水田が広がっており、恭司の祖母や祖父もそこに入院して、ついに帰ってこなかった。幼いころの記憶もあり、その病院は冷たく、死を連想させる場所だった。恭司にとってはあまり行きたい場所ではないが、症状を抑えるためには、そこに行かなければならない。
「ついでに隣町まで練習にいかないか?」
「え?」
「病院まで連れてってくれよ」
「いいけど……」
 理恵が答え終わる前に、恭司は助手席のドアを開けた。久々に心地よい空間に入れたと思った。
「いいけど、シートベルトは締めなよ」
 車内は真新しくて人工的な匂いがした。ダッシュボードの灰色のプラスチックの質感や、理恵の皮膚の表面がひどく鮮明に見えた。いつもの事だった。調子が悪くなると、恭司の注意力の調和が崩れて、視界が通常とは違ったものとなる。
「締めると、苦しいんだよ」
 頭がぼんやりとするが、胸も苦しかった。意識がしっかりしていたら、こんなものではなく、もっと酷い痛みを自覚しなければならなかっただろう。幼い恭司に対して、医者は宿命と思って諦めろ、という投げやりな慰めを与えたが、意識が混濁する事による痛みの軽減は、その神様が申し訳程度に与えた慈悲と言ってもよかった。
「事故で死んでも知らないからね」
 理恵は低速で走り出し、そのまままっすぐと進んだ。車は、人間の歩みのようにゆっくりだった。これならば、事故を起こしても死ぬ事は無いだろうが、自分の足で歩いているようで、恭司は苛立った。
「もう少し、スピード出してもいいよ」
 恭司が呟き理恵を見た。彼女の手は橙色に輝いて、輪郭がぼやけて見えた。幻覚でも見ているのかと思って痛いほど目を擦った。久しぶりに会ったというのに、病気のせいで理恵の実体が良く見えない。
「どう? 大学は」
 彼女は大学に行かず、専門学校に行っていると恭司は聞いていた。保育系の専門学校で、将来は幼稚園の先生になるらしい。彼女の進路に関して、恭司は当時も今も疑問を持っている。どうして県下一の進学校に行って幼稚園の先生になるのか。彼女の事は、物心ついた時から知っている。言葉を話し始めたのも同じ日だったという。ある時期までは、彼女の行動に疑問を抱くことはなかった。意思の疎通も極めて滑らかに行えていたのだが、いつしか、話が合わなくなっていた。
「大学?」
 何を考えているのか分からない。それは彼女も同じだと恭司は思うのだが、互いにその原因を検討する事はしなかった。
「いま、それを聞くのか?」
 恭司は彼女が身体の状態やどんな病気なのか聞くと思っていたので、なぜ大学の事を聞くのか理解できなかった。
「具合を聞いてほしいの?」
「どうせ聞くならね」
「急に悪くなったの?」
「持病だよ」
「昔から?」
 幼馴染で、昔から恭司と双子のように一緒にいる理恵だが、この病気を知らないのも無理はない。恭司は小さい頃はしっかりと薬を飲んでいたので、人前で症状が発生することはなかった。だが、恭司には、この病気の事を彼女に話した記憶が確かにある。
「あんまり喋りたくないんだ」
「無言で走れって?」
 恭司は大学に入ってからアルコールを摂取するようになったので、薬を飲む事をおろそかにしており、実家に薬を持ってくる事さえ忘れてしまっていた。この持病の薬は、多くの薬と同様にアルコールとの併用は禁じられている。煙草もそうだが、恭司は出来ればアルコールに手を出したくなかったが、気付いたら手を出すようになっていた。身体に余分なものは入れたくはなかったが、どうして摂取するようになったのか、その原因を考えていると、雨が降ってきた。空を見上げても雨雲の気配はなく、青い空と白い雲が広がっている。平和そのものだ。一九九九年で地球が滅亡するという話も、もはや懐かしかった。
 一九九九年の七月。ちょうどそのころ、恭司は免許の合宿で山梨にいた。この町よりもはるかに田舎だった。自分がこんなところで死ぬとは思えず、その時、予言など、でたらめだとつくづく思った。
「やだ、天気雨」
「なんで嫌なんだ?」
 薄れた意識にこの不思議な光景は悪くなかった。恭司は薄目を開け、フロントガラスを流れる雨水を眺め、その半透明の軌跡に恍惚とさせられた。彼女はぎこちない手つきで、ワイパーを作動させ柔らかい水の流れを引き延ばす。恭司は身をよじり後方を見た。いまは車の通りが少なくて助かっているが、このような低速で走っていたら、行列になることは間違いないので、確かに彼女には練習が必要だと思った。
「みてみて、あそこにあったクリーニング屋。コンビニなってるんだ」
 恭司は身体をひねり、再び前方に視線を向けた。ファミリーマートが見える。そこにあったボロボロのクリーニング屋は消えてなくなっていた。その背後にあった鬱蒼とした林も無くなり、整然と並んだ切り株が見えるのみだった。
「難しかったか?」
「何が?」
「免許の最終試験」
「あんたは取ってないの?」
 恭司はどの段階で自分が挫折したのか、よくは覚えていなかった。確か坂道発進まで進んだ気がする。恭司にとっては、初めての挫折かもしれなかった。大学受験も大変だったが、何とか合格した。教官に対して謙虚な態度をとり続ければ、何とかなっただろうが、教官が高圧的な態度だったので、それ以上続けることが出来なかった。教官の事を思い出すのも嫌だった。背が高くて口数も少ない男だった。
「うん。大変だったよ。道を覚えなきゃならなかったからね」
「地元だろ」
「知らない道だったよ。知ってる? 町から離れて、湖の横通って。ものすごい田舎道走って……」
 この町の中心には恭司や彼女が住んでいる住宅地があり、県道が住宅街の中央を突っ切り、その道をまっすぐ行けば、やがて住宅地を離れ、水田と湖が広がる郊外に達する。町の風景を頭の中で俯瞰している時、理恵が病院に行くまでの道を知っているのだろうかと、いまさら気になった。
「病院にどう行くか知ってる?」
「ごめん、考えてる余裕が……」
 恭司はため息をついた。
「この道をまっすぐだ」
「まっすぐね」
 どうも、理恵の様子がおかしい事に恭司は気づいた。理恵は座席で固まっている。運転に緊張しているのか、それとも他に原因があるのか。恭司には分からない。
「最近……」
 理恵が何か言いかけ、ブレーキを踏んだ。
「どうした」
「ごめん、何か見えた気がして」
「運転に集中したほうがいいぞ」
「ごめん。緊張しちゃって」
 理恵の緊張の原因が、恭司には分からなかった。久しぶりだからという事もあるのだろうが、ずっと、友人だったのに、なぜこんなにぎこちなくなるのか理解できなかった。彼女とは対照的に、恭司は気安く話しかける事が出来た。まるで、別々だったこの四年間もずっと隣に、同じ空間にいたように接することができた。
「どうして、お前が先に免許とれちゃったんだろうなあ」
「どういうこと?」
「まさか、お前の車に乗せてもらうことになるとは」
 少し傲慢な発言だったが、場を和ませるため、理恵の緊張を解くために言った言葉だった。しかし、気分を害したのか、理恵は何の言葉を返さなかった。恭司はさらに不用意な言葉を用意して、外に出そうとしていたが、飲み込んだ。言いようのない無力感に襲われ、頭の中に眠気が湧き上がった。目の前に陰影に富んだ巨大な雲が広がっていた。季節は春だが夏を連想してしまう。そういえば、いまは春だが妙に肌寒かった。今日は季節感が感じられず、眠りの世界にいるのか、現実にいるのか恭司の感覚は、ひどくあいまいだった。
「怒るなよ」
 恭司は昔の事を思い出していた。この町では、常に理恵が隣にいた。気が付くと、ニュータウンの閑散とした道路を走っていた。ここを抜けると、湖が見え、そのわき道を真っ直ぐ走ると、総合病院がある。両脇に見える家々は真新しくて、人の気配が無かった。
「どんな病気だか知らないけど、入院するの?」
「わからない」
「大学には戻れるの?」
「戻れるよ」
 正直、恭司は大学に戻れるかどうか不安だった。この町を離れると、全く違う世界で暮らしている気分になる。この町に戻ってきてもそれは同じ事だった。違う世界に暮らすという事は心に少なからず負担がかかる。いちいち、その世界の空気に慣れなければならない。
 ラジオからは、交通情報が流れていた。明るい音楽と女性の声。やがて、喋りは交通情報の詳細を伝えるさらに明るい女性に引き継がれた。恭司には同じ人間が声色を変えたとしか思えなかった。
「ところで、どうして行かなかった?」
「何の話?」
「どうして、大学にいかなかった」
 眠気は既に醒めていた。恭司は沈み込むようにシートに座っていて、空ばかり見ていた。病院に行ったら家に帰る。家に帰ったら休みが終わる前に大学のある街に戻る。そこから先の生活は想像つく。不安だった。先が見えないのが不安ではなく、先の先まで見えてしまうのが不安だった。
「大学、どこにでも行けただろ」
 彼女の高校での成績は、十番目ぐらいだった。恭司と同じぐらいの成績で、恭司が行っている大学にも問題なく入れるはずだった。
「ここが好きだから」
「こんな町が?」
 恭司にとって、その答えは単なる逃げに思えた。人間は成長しなければならず、そのためには常に新しい環境に向かい、そして、そこに馴染まなくてはならないと恭司は考えていた。この町は、高校卒業間際になって、改めてその魅力に気づくようなところではないし、そもそもそんな魅力など、何処をさがしても見つかるものではない。単なるベッドタウン。住宅地と寂れた駅前には、数件のビジネスホテルとコンビニエンスストアがある程度で、人間の姿自体を見つけることすら難しい。現に、理恵の車に乗せてもらってから、移動中に人を一人も見ていないのだ。
 誰も歩いていないコンクリート製の橋を渡ると、誰もいない公園が見えた。その先には、陽を浴びて輝く湖が見える。輝いている部分は水平線際だけだった。ぼんやりと水際を眺めていると、一層強い眠気が襲ってきた。
 どうして、彼女が恭司が考えるところの向上心を失ってしまったのか、恭司には分からなかった。彼女とは、どんな考えも共用できていたはずだった。理恵が何か新しい事を知れば、不思議な事に恭司もそれを知っていて、覚えた覚えの無いその知識を使うことが出来た。
 ただしそれは、恭司のごく幼い頃に限定されていた。小学校に上がる頃には、そんな体験はしなくなってしまった。いままで、彼女とその体験について語り合ったことはないので、それがただの空想や妄想だったかもしれない可能性もある。何故だかわからないが、彼女とその体験について語り合うのは、どこか見知らぬ場所に潜り込むような、ひどく勇気が要る行為だった。
 昔を懐かしんでいると、恭司の視界には湖面しか映らなくなっていた。まるで海のようで恭司の古い記憶とは違う。これほどの大きさだったのか、と驚いた。上空の一部には、岩のような重苦しい雨雲が滞在していて、キッチンでよく聞く排水音のような雷鳴が聴こえた。雲から湖面に注がれる雨が風に流され、柔らかくゆれているのがわかる。亀裂じみた雲間から陽光が漏れ、帯状の光が幾重にも重なっている。道路には、車が一台も走っていない。風で、道端に生えている橙色と青の猫ジャラシのような、奇妙な形の植物が揺れている。
「左に寄りすぎだよ」
 左側、つまり湖の側に車が寄っていたので恭司が注意すると、彼女はぎこちなくハンドルを右に回し、やや中央に戻る。
「悪かったわね」
 彼女は笑顔で答えたが、恭司は、その言葉の中に、紛れもない不快感が存在している事を発見した。それは極めて小さく、神経を研ぎ澄ませていないと、拾いきれず、零れ落ちてしまう。
 もし、ここで彼女に捨てられたらどうなるのだろうか、と恭司は考えた。小さい頃、父親の車に乗り、病院に向かう途中の林道を走るたび、もしここで捨てられたらどうしよう、といつも考えていた。心地よい空間に守られているが、そこから出てしまったら、どうなるのか、という妄想は父と一緒にいると、自然に発生し、いつのまにか心を覆った。幼い頃より、既に父親とは仲が悪かったので、その関係性が妄想に、ほんの少しの真実味を与えていた。
「ちょっと止めてくれ」
 心の奥に沈めていた記憶、あまり心地よいとは呼べない記憶が浮上してきて、恭司は気分が悪くなった。車は湖のほとりで止まった。湖の対岸には重機の橙色の影が見える。住宅地を建設する予定らしい。あと一年もすれば、ここもすっかり様変わりしているのだろう。恭司は車から這い出て、ガードレールにしがみつき、湖の中に嘔吐する。胃の中のものを吐き出すと、恭司は心身ともに楽になった。
「大丈夫なの?」
「ああ」
「いったい、なんの病気?」
 彼女もしゃがみこみ、アスファルトに手を付き、恭司の青白い顔を覗き込む。その時、恭司は彼女の手元近くに亀を見つけた。ニュースで見たことがある。この湖周辺で繁殖しているというカミツキガメだ。両手で持てるほどの大きさだが、顎の力はとても強いらしい。恭司も実物を見たのは初めてだった。
「動くな、指を食われるぞ」
 恭司は立ち上がり、掌を広げ、彼女に動かないよう言った。亀が道を渡る様は、まるで岩の塊が動いているようだった。陽が強かったので、カメはくっきりと道路に影を残している。彼女は言いつけ通り動かなかったし、周囲は静まり返っていたので、亀が動くときに発生するかりかりという乾いた音があたりに響いた。爪切りみたいに、ぱちんと彼女の指が食いちぎられる様を想像した。
「ゆっくり、立ち上がれ」
 声に反応して彼女は動いたが、恭司の意識が朦朧としている事を差し引いても、亀のように遅かった。恭司はまるで自分の身体が思い通りに動かないかのような苛立ちを覚えた。
「かみつかれるぞ」
 恭司は吐き気を抑えながら叫んだ。大声を出したためか、胃を直接手で握られているような感触を覚え、その場にしゃがみ込んだ。
「大丈夫?」
 彼女が寄ってきて、恭司の背を摩った。そもそも、自分がこんなに気分が悪くなったのは、不安定な彼女の運転に原因があると考えると、無性に腹が立ってきた。感覚が不安定になり、摩られているのか、自分で自分を摩っているのか、分からなくなる。
「お前の運転は下手だ」
 無意識から出た言葉だった。自分でも決定的な一言だと思ったが、取り繕うことはしなかった。
「そんな言い方……」
「いや下手だよ」
「送ってあげてるのに?」
 湖の向こう側から轟音が聴こえる。重機が動き土を掘り返し土地の形を変えている。湖上空の雨雲は消え、空が青かった。彼女は何も言わずに、車に乗り込んだ。彼女の表情をしっかりと見ていたのだが、恭司は彼女の次の行動が予測できなかった。不愉快になった事はわかっていたが、まさか、そのまま走り去りはしないだろうと考えていた。
 しかし、彼女はそのまま走り去ってしまった。初心者であるという事を感じさせない鮮やかな発進だと恭司は思った。恭司が彼女の行動を予想できなかったのは、こんなところに病人を残していくはずがない、という考えもあったし、彼女の性格も考慮に入れていたためだ。彼女は、良くも悪くも、おっとりとした性格であり、悪い人間ではなく善人である。こんな突発的な行動に出るとは思わなかったのだ。
 彼女が走り去った後は、静かなものだった。恭司は足元の石を蹴る。穏やかな湖は灰色に佇んでいる。車の往来は無いので、カミツキガメは陽の光をあびたアスファルトを、安心してゆっくりと渡っている。
 しかし、下手だったと、恭司は言い訳するように、自らに語りかける。
 彼女は、この病気がどんなものか知らないだろう。あのように内臓を揺らされると、死ぬほど気分が悪くなる。全国で十人だけ。子供の頃、この病気にかかる人間がこの国で十人だけだと知り、不運な事だと思う一方、自分が選ばれた人間なのではないかという高揚も感じた。外見が変化するわけでもない。症状も特殊なものではない。ただ、風邪のような症状が出て、完治は不可能で、薬で抑えるしかないという病気だった。
 あいつは、病気の事を忘れていたのか?
 恭司はぼんやりと考えた。
 以前、確か彼女に病気のことを話したという記憶があった。その時、なぜ、彼女が自分と同じ病気ではないのかと不思議に思った。彼女とは常に一心同体で成長した。だから、彼女も恭司と同じ病気を持っているものだろうと、ごく自然と考えていた。
 自分のことを詳細に記憶してもらえていないと知ると、ひどく失望した気分になる。恭司は気の抜けた表情で、湖の向こう側を見ていた。彼女が車で走り去った道の先には、十字路があり、左に行けば、一周して戻ってくるし、まっすぐ行けば総合病院、右に曲がれば町に戻る。全ては彼女の選択次第だった。
 突然、視界が暗くなり、恭司の中にある記憶が蘇った。小さい頃、彼女とこの湖に来た事がある。記憶の中に両親の影はなかった。記憶はひどく曖昧で、不鮮明だった。もしかして、家出だったのかもしれない。記憶力に自信はあったが、当時の事情は思い出せなかった。周囲には何もなかったが、寂しくはなかった。
 彼女は、きっと一周して戻ってくると予想して、恭司は白いガードレールに腰掛けた。いくら待っても、彼女は戻ってこなかった。カミツキガメは道を渡り終え、道路わきの茂みの中へと姿を消した。茂みからは、白い柱の標識が青い空に伸びている。車が当たったのか、少しひしゃげて塗料が落ちている。青地に白い矢印。確か、一方通行の標識だったと思う。
 もしかして、彼女に一生会えないのではないかと、恭司は思った。そうならば、拍子抜けするほど簡単な別れだった。だが、正直ほっとしてもいた。もう、話が合わなくなっていたので、彼女と会わないでよいと考えると、胃がさらに軽くなった。
 恭司は自分に感情というものがあるのだろうか、と不安になる。彼女はこの後、どうなって、自分はこの後、どうなるのか、さっぱりわからない。湖の上の雨雲はかけらもなくなっていた。
 恭司は、ふと、彼女の気持ちなど一度も考えたことが無かった事を思い出した。顔を上げれば、彼女がいる。何度もそう考えたが、誰もいなかった。失って初めて、その存在の大切さが理解できた。恭司は、久しぶりに、二十一世紀に入ってから初めて涙を流した。自分に、感情がまだあるのかと少し安心した。気分は最低だったが、身体は妙に軽くて心地よかった。持病が治ったのかどうかはわからないが、少なくとも病院に行く必要はないと思った。

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