また行こうね

という会話があっても
わたしの心の中では
また行けるとは思っていない。

人生そんなに計画通りに行かない。

体調が一時的に悪かったり
物理的に行けない環境になったり
お金が無かったり
子供が居たり
介護があったり
体力に自信が無くなったり。


だから、
その時その時の
旅行や
出来事
ひとつひとつの行動に
真剣に判断して取り組んでいる。


四六時中真剣に向き合っていたら
疲れるとか
楽しくないとか
様々な意見があるが
わたしは思わない。

本来それくらい注意深く
向き合うべきなんじゃないだろうか。

〜すべき
ということは存在しないけど
注意深く生きることの大切さを
身に染みて分かってから
ひとつひとつの行動を見直した。
だからわたしにとって すべき行動 なのだ。


ご飯ひとつとっても
本当に食べたいものを食べるし
残りごはんを食べるのか
残ってても買って帰るのか
食べて帰るのか
誰かと食べるのか
若しくはお腹空いてないから食べないのか。


そういうところから見直す。

時間になったから食べなきゃいけない
という
型にはめ込んだ判断をやめて
自分に向き合った判断をする。





認知症で要介護の祖母が
温泉に行きたいと言う。

身体が弱く、
お金に不自由がなく
常にわがままが通ってきた祖母は
自分の身体状況を把握せず
要望を母に繰り返し言う。


数年前から体調が優れない母も
祖母を気遣い
どうやったら温泉へ連れていけるかと
自分の身体状況を度外視して考える。


正直、わたしは無理だと思っている。
幼稚園児がジェットコースターに乗りたいと
言うのと同じように思えてしまうのだ。


家族風呂を貸し切って
介護用の車も手配して
何もかもお金で解決できるならいいが
そんなうまくはいかない。


全て万全に揃っていても
体調が優れなかったりして
その旅行自体が流れたりする。


だからこそ
旅行ややりたいことができた時の
重要性や有り難み
どれだけ貴重な経験だったかを感じるし
感じられるようにしている。

当たり前のように食べているご飯や
お風呂
寝ることや
話すこと
行動の全てに
ひとつひとつ大切な判断が必要なのだ。


最初のうちは
毎回疲れてしまったが
徐々に慣れてきて
些細なことで自分の人生を生きてるなあ
と思える機会が増えた。

付き合いで飲むお酒をやめたり
疲れたときには盛り上がっていても帰る
いまじゃないと判断したら、
だらだら続けずスパッと諦める。

祖母が温泉に行きたいという気持ちはわかるし
その気持ちを口に出すこともいいことだ。
だが
本人の要望を全ては聞いてあげられない。


今できていることが
明日できなくなるし
今できないことが
明日できるかもしれないから
ひとつひとつの行動に伴う判断に
自分の心と向き合う必要があるなあと思う。


そして
判断と心が向き合うスピードが
瞬時にできるようにしたい。

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