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【短編】溶けるパラソル

 なんとなくその日は、庭で過ごそうと思ったのです。秋桜畑のそばにパラソルを開いて、私は授業でつかう論文を読んでいました。降り注ぐ日射しのせいか、辺りが霞んで見えます。文字を追うのに疲れて、資料から眼を逸らすと、足もとに真っ赤な花が咲いていました。あれはなんの花だろう。あんなに赤々と燃えて。考えにふけっていると、それは小さく跳ねて、砂埃をたてました。私ははっとして顔をあげます。いつの間にか姪の洋子が佇んでいました。私が錯覚していた真っ赤な花は、彼女が履いていたエナメルの靴だったのです。

「叔母さん、何してんの?」

 彼女はいたずらっぽく笑いました。日射しで白く磨かれた肌に、菫色のワンピースがよく似合っています。今年で九つになるとは思えないほど大人びて見えました。

「大学の課題」

 私がそう言うと、洋子はため息をつきました。

「へえ、退屈そう」

「そうでもないよ。知らないことを知るのは楽しいし」

「ふうん」

 彼女は私の隣に座り、ふっくらとした右手をすぼめて、筒をつくりました。

「ねえ、のぞいてみて」

 言われるがままに、私はそのなかを覗きこみました。なんてことない、庭の景色があるだけです。それより彼女の伸びかけの爪が気になります。牙をむくように、私を襲ってこないかしら。なんて、ひやひやしていると、なにもかもをかっさらってゆくような大きな風が吹きました。

 筒のなかの草むらが、倒れたままぴたりと止まります。え、と思ういとまもありませんでした。葉ずれが聞こえるたびに、風に薄く色がついて、景色は、混ざって、かすれてゆきました。うろこ雲がはがれ落ち、日射しは蜜色に溶け、空もそのうちゆっくりと、渦を巻いて、骨の折れたパラソルとともに、一緒になるのでしょう。かすかに潮の匂いを感じながら、私は、私の身体が、偽物であるかのような心地がして、洋子の、柔らかくて少し湿った指さきに、自分の指をかけました。筒のなかに入って、溶けきってしまいたいと願いながら。

「洋子! こんなところにいたの!」

 姉の怒声で、ひとつになりかけていた世界が、もと通りになりました。そっと指の筒が外されて、洋子は弾けるように駆けてゆきます。「お母さん!」と甘えた声を出しながら、姉の胸に飛びこみました。

「……夢だったのかな」

 私は自分の指を曲げて、ふたりを覗きこみました。いくら風が吹いても、景色は変わらないままです。楽しげな背中を見送って、私は論文の続きに取りかかります。あれ、と思い、眼をこすりました。文字が歪んで見えるのです。たった1ページだけ、日に当たっていたページだけが。なんだか気が削がれてしまい、私は本物の夢を見るために、そっと瞼を閉じました。

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