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【短編】サーカスナイト(前編)
前書き
このお話はグロテスクな描写を含みます。苦手な方はそっとページを閉じ、大丈夫な方はそのままお読みください。
広場が燃えていました。というのは少年の見間違いで、本当はまっ赤な天幕がぽつねんと、さびれた広場にはられていたのでした。
移動式のサーカス団がやってきたのです。
少年はチケットの列にならび、期待に胸をふくらませながら席につきました。天幕のなかはひんやりとした空気に包まれています。やがてノイズにまみれた愉快な音楽とともに、さまざまな団員が舞台上にあらわれました。
ながい布で目を隠したままナイフを投げる男や、軽やかに、まるで空でも飛ぶように綱渡りをする若い女、まぼろしを本物にしてしまう奇術師の老紳士。めくるめく輝く彼らのすがたに、少年はうっとりとしたため息をつきました。
「さてクライマックスは人魚の解剖です」
団長が高々と声をあげました。踊り子たちがおおきな水槽を引いてきます。少年は目をみはりました。まさか人魚が実在するとは夢にも思っていませんでした。
「つくりものだと仰りたいのでしょう」
少年の思いを読んでいるかのように語りかけ、団長は唇を歪めました。
「でしたら、じっくりとご覧になってください。ナイフで裂いたときの皮も肉も、内臓も、すべて本物ですから」
人魚の少女が踊り子たちに手を引かれて、大きなまな板のうえに寝そべりました。団長はナイフを彼女の胸につきたてて、そのままゆっくりと腹のほうへさげてゆきます。切れ目から指をこじ入れて、皮ふをめりめりと広げますと、膜のはった肋骨があらわになりました。ここで血の匂いに耐えかねたひとたちが出口の幕をくぐります。しかしたいていのひとはじっと、なにかにとりつかれたように人魚の少女を見つめつづけ、その場を身じろぎひとつしませんでした。
ゆっくりと肋骨を断ち、痺れるような音が響きわたっても、人魚の少女は痛みに叫ぶことはありません。うつろな目を、影すらもうつさない真っ黒なひとみを、観客にむけているだけです。少年はその底知れないひとみに吸いよせられてしまい、自分のすがたをうつしたくてたまらなくなりました。席を立ち、前列に向かいます。恐る恐る少女の顔をのぞきこんで息をのみました。彼女はなみだをながしていたのです。
団長はひととおり臓物をかかげたあと、身体のなかへもどして、傷口をひと撫でしました。するとどうでしょうか。またたく間に彼女の傷はふさがって、もとのきれいな皮ふにもどっているではありませんか。人魚の少女はむくりと起きあがり、はにかみながら手をふります。沸きあがった観客たちが、ばらの花束や、ラムネ菓子や、ぬいぐるみを舞台に投げいれました。幕が降りても拍手は鳴り止みません。
少年は天幕をでてからも、人魚の少女が流したなみだが忘れられませんでした。きっとあの子を救ってみせようと、心に誓ったのです。
その夜は、甘い蜜がにじみ出るような、濃い色をおびた満月でした。少年はこっそりと天幕をくぐり、ステージの裏へまわります。散らかった小道具やほこりをかぶった衣装といっしょに、水槽に入った人魚の少女が押しこめられていました。
「ねえ、助けにきたよ」
背を向けていた少女がくるりとこちらを向きました。長いまつげが、あぶくといっしょに押しあげられます。
「助けって、だれを」
「もちろん、きみを」
そう言ったきり、ふたりはしばらくお互いを見つめつづけました。分厚い水槽越しに手のひらを重ねます。不思議と体温を感じるような気がしました。
「わたしをひかりがあるところに動かして」
少女のまなざしの先を追いかけますと、細やかに編まれた月のひかりが、破れた天幕からさし込んでいました。少年はそこまで水槽をひっぱります。荒々しく波が立って、全身がずぶ濡れになりました。
「こういうふうになれるのは満月のときだけなの」
月のひかりを浴びた少女の尾ひれは、やがてふたつそろった人間の脚となりました。少女はじぶんの力で水槽を抜けだし、手近にあった衣装を身にまといました。
「さあ、はやく。もうすぐ見まわりがくる時間だわ。わたしを遠くへ連れていってくれるんでしょう」
「うん、任せてよ」
少年はつんと湿った手をしっかりとつなぎました。その冷たさがかえって彼の情熱をかき立てました。広場を出て、海をめざします。ふたつの影がアスファルトに揺らめき、商店街のほうへと吸いよせられてゆきました。
明かりの消えた飾り窓には、さまざまな洋服を着た人形たちが微笑んでいます。ギンガムチェックのワンピースも、シフォンのドレスも、真っ青なベルベットも、きっとどれも少女にぴったりです。
「もしわたしが人間だったら、もっと違う生き方になっていたと思うの」
人魚の少女はちいさくため息をつきました。硝子の向こう側に閉じこめられている人形たちへ憧れのまなざしを投げかけています。
「それは、そうかもしれないけど」
でも彼女が人間のすがたをしていては、こうして会うこともなかったのです。人魚のほうの彼女でよかったと、ほっと胸をなでおろします。ですが、そのような気持ちを抱いている自分にたいして、ほの暗い後ろめたさを覚えました。
「ぼくはどちらのきみも素敵だと思うよ」
そう答えたとき、きゅうに少年の右脚がするどく火照りました。ちらりと視線を落として、あぜんとします。ひりついた鋭いナイフが深々と突き刺さっていたのです。
「嬢、帰りましょう」
低く唸るような声とともに、ナイフ投げの男があらわれました。目隠しをしたままでしたが、それでも少年たちをしっかりと捉えているようです。
「ここは僕たちが棲んでいいところではありませんよ」
ナイフ投げの男は少女のほそい腕をつかみました。軽々と抱きかかえて、なめらかに去ってゆきます。少年は片方の脚で追いかけようとしましたが、うまく走ることができず、倒れこんでしまいました。
「どうしよう、どうしよう」
焦って動くほど、右脚の傷は広がります。もう彼女を救うことができないかもしれない。そうあきらめかけたときでした。
少女の指先が、男の目隠しをするすると外してしまったのです。
「やめろ!」
獣のような呻きをあげて、ナイフ投げの男はしゃがみこみます。
「世界が僕のなかに入ってくる! 嬢、はやく目隠しを!」
少女は彼の腰からナイフを抜いて、そのまま彼の首につきたててしまいました。喉からひゅうと風がふいて、それっきりです。少年のもとへ駆けより、ためらいもなく、右脚にささったナイフを引き抜きました。血液がふきだす感覚と、肉のえぐられる痛みで、少年は通りに響くほどの声をあげました。
「あなたの傷を治すから。もう少し我慢していてね」
彼女のあたたかななみだが、ぱっくりと開いた傷口に落ちました。見えない糸でぬわれてゆくように、みるみる傷がふさがります。痛みもきれいさっぱりなくなっていました。
「……ありがとう」
少女はこくりとうなずきます。少年は立ちあがり、彼女の手をとりました。もう二度と連れて行かれることのないように、しっかりと握りしめました。
後編はこちらです↓
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