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【短編】サーカスナイト(後編)

前編はこちらです↓


すべてが硝子でできた美しい街や、まぼろしの鳥たちがすむ植物園のような街、要らなくなったおもちゃの集まる街や、いつまでも夜が明けない街……人魚の少女が訪れた街の数々を、少年は心を踊らせながら聞いていました。

「うらやましいな。僕はここから出たことがないからさ」

「出ようとはおもわないの?」

「きみが来るまで、考えたこともなかったんだ」

「じゃあ、今は? 出たいとおもう?」

「うん、少しね」

「……そう」

それきり口をつぐみ、少女はうつむいてしまいました。なにか考えをめぐらせているようでしたが、少年は沈黙に耐えることができず、こう切り出しました。

「ねえ、月光草をみにいこうか。僕の街にしかない、特別な植物なんだ。月のひかりを浴びると一面、銀いろになって、とてもきれいなんだよ。海へ行くとちゅうに必ずとおるから、寄っていこうよ」

そう約束したときでした。どこからか楽しげな女の声が響きわたりました。ふたりはあわてて、あたりをみまわしましたが、明かりをおとして寝静まる住宅ばかりで、どこにも誰のすがたもありません。

「ここよ、ここ。空をみあげてごらんなさい」

言われるがままに天を仰ぎました。ショウに出ていた綱渡りの女です。女は電線をゆらし、まるで羽でも生えているかのように、さっとふたりのもとまで降りてきました。

少年は一歩、前へでて、少女を守るように両手をひろげました。ですが、女のあまりの軽やかな身のこなしについていくことができず、またもや人魚の少女を奪われてしまったのです。

「じゃあね、きみ、もう恋人ごっこはおしまいだよ」

女は電信柱をかけあがって、ふわりと電線に着地しました。闇夜をゆくカラスのようにしなやかに渡ります。少年はそのすがたを追いかけました。走れば走るほど、自分の無力さを突きつけられてゆきました。

少女はおもむろに、先ほどの男が持っていたナイフを取りだして、電線をぷつんと切りました。バランスを崩した女は、そのまま全身を焼かれ、夜の色とおそろいになってしまいました。すんでのところで、少女は女のもとから飛びだし、少年の腕のなかへ飛びこみます。ふたりは地面を転がって抱きあいました。

「だいじょうぶ?」

「ええ」

少女のつややかな髪の毛が、少年の頬をすべります。この旅がずっと終わらなければいいのに。少年はそう思いながら、小さな手をとって、少女を起きあがらせました。


海鳴りがすぐそばまで迫っていました。松林を走り抜けますと、真っ暗な海が一面にあらわれました。潮の匂いが肺を満たし、ここちよく身体のなかをめぐりました。

「もうお別れだね」

人魚の少女が不安げな顔で、こちらを見ます。

「いやよ」

ぎゅっと手をつかんで離しませんでした。少年の胸も締めつけられそうでした。

「僕だって嫌だよ。せっかくきみに会えたのに、もうお別れなんて」

少女は細い首を激しく振りました。なにか言いたそうにしていましたが、声にならないようです。少女を落ち着かせるために、岩場に腰をおろさせ、少年もとなりに座りました。

「月光草を」

彼女はようやく唇を開きました。

「月光草を見にいきたいわ」

そこでふと、少年は思いました。どうして月光草の原っぱを通らなかったのでしょう。月の光をあびて銀いろにかがやく草の群れは、地上に存在する天国だと言われているのに。気がつかずに通るなんて、できるはずがありません。

海原がぐわんとしぶきをあげて歪みました。砂浜がくずれ落ち、海鳴りはカラスの鳴き声にかわります。ミキサーにかけられたように景色がまわりつづけ、はっと我にかえりますと、ふたりは有料駐車場の縁石に腰かけていました。

「今晩は。きょうは本当にいい月だね」

サーカスでみた奇術の老紳士でした。少年はとっさに少女を抱きよせます。

「さっきのは、あなたがやったんですか」

「ええ、君だけにまぼろしをみせてあげました。お嬢には、本当のことが言えない奇術をかけたのですがね。まさかこうもあっさり見破られるとは」

彼は話しているあいだも、身につけている帽子や外套から、うさぎや子猫を生みだして、それが道路を歩いたり、跳ねまわったり、少年たちのそばに寄りそったりしました。

「本当は隙をついて、お嬢をとりもどす作戦だったのですが、こうなってしまっては仕方がない。ひとつゲームをしませんか」

指を鳴らすと、動物たちはあっという間に消え、老紳士は微笑みました。

「いま、私は月を消しました」

少年ははっとして空を見あげました。月のあったところに、ぽっかりと、どこまでも深い穴があいていました。

「タイムリミットは夜明けまで。月を見つけることができたら、君の勝ち。見つけられなかったら、お嬢は返してもらうよ。がんばって探してきてくださいね」

人魚の少女は、いつのまにか老紳士に抱えられていました。少年はすぐさま駆けだします。月が向かう場所なんて見当もつきません。コンビニ、公園、路地裏へ。闇雲に探しまわりました。

ふと映画館の看板が目に止まりました。月が逃げこむところはシネマのなかであると、なにかの歌で聴いたことがあります。少年はすがりつくように、いくつかある劇場のビロードの座席をひとつひとつ見まわりました。

少年の身体に映写機のひかりがあたり、スクリーンに影がうつりました。その影を見てはっとおどろきます。なんと自分の頭が大きなまんまるになっているではありませんか。おそるおそる顔に触れてみますと、クレーターのざらりとした感覚が、指さきに伝わってきました。

「やった、見つけたぞ! 月は僕自身だったんだ!」

心のなかで喜んで、そのまま映画館を飛びだしてしまいました。

カッとあがった熱のままに走っていますと、ふと遠くのほうで銀色の波が風にゆれているのが見えました。月光草の原っぱです。少年の胸がざわめきました。もし、ほんとうに月が消えてしまったら、と考えます。こんなふうにひかっているはずがないのです。月が雲に覆われるだけで、月光草の群れはただの草原になってしまうのに。少年は自分の頰に触れました。やわらかな皮ふがあるばかりでした。

「はじめから月は消えていなかったんだ」

月光草がいっせいに鋭いひかりを放ったような気がしました。どこからかパチリという音がひびき、月が夜空にもどります。少年の隣には人魚の少女が立っていました。

「お嬢をつれてはやく行きなさい。ほかに追っ手がくるまえに」

風とともに老紳士の声が聞こえてきます。松林のあいだに、すっと消える影を、少年は見たような気がしました。


星たちが眠りにつき、夜空の暗がりが少しずつ、透きとおった紫色に薄まります。真向かいに広がっている海原にもおなじ色のひかりがあたり、ふたりはまぶしさに目を細めました。もうじき日が昇ります。少年はつないでいた手を、そっとはなし、少女の背中を押しました。

「それじゃあ、元気でね」

しかし少女は首を横にふりました。はなした手をふたたびつかみ、引きよせます。

「あなたも来るのよ」

足もとをさらうように波がせまりました。少年は後ずさりをしましたが、うまく両足を動かすことができず、転んでしまいました。それもそのはずです。彼のふたつの脚はすでに、ひとつにつながってしまったのですから。少女に治してもらった傷口から、まっ赤なうろこが生えて、みるみるうちに魚の尾ひれとなりました。

人魚の少女がやさしくほほえみました。彼女が笑っているのを、少年は間近で見ることができて、たいへん嬉しくなりました。



それからさきのことは、ふたりにしか分かりません。二匹の人魚が海の底を、深く深くもぐってゆくのを見たのは、誰ひとりいないのですから。


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