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私にも永遠解く力を下さい
笹井宏之著『えーえんとくちから』の感想。
この記事で取りあげた短歌はすべて、以下の書籍から引用しています。
笹井宏之さんの短歌は呪文めいている。
そのうえ、この言葉でなければならない、という必然性が常につきまとっている感じがする。選ばれた言葉に質量がある、というか。
えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力を下さい
「えーえんとくちから」はピントのずれた画像のようにせまり、それが「永遠解く力」だと分かった瞬間に、いっきに解像度があがる。「下さい」と言っているからには、これは祈りだ。ただ、祈りでありながら「永遠解く力」がほんとうにあるのだという切実さが伝わってくる。
しあきたし、ぜつぼうごっこはやめにしておとといからの食器を洗う
当然「しあきたし、」は「し(やり)飽きたし、」ということなのだけど、文脈のとおり読んでしまってはいけない。飽きたから「ぜつぼうごっこ」が終わってしまったのではなく、ましてや放置された食器が気になったから止めた、という理由でもないだろう。この「しあきたし、」という呪文をきっかけに「ぜつぼうごっこ」は終わってしまったのだ。
あからさまな呪文でなくても、彼の言葉でひとやものが、たやすく変身を遂げてしまう。その片鱗をひもといてみる。
胃のなかでくだもの死んでしまったら、人ってときに墓なんですね
「くだもの」というのが、ひとの皮膚のような柔らかさを、その「くだもの」が胃で消化されて、ドロドロに死んでしまうさまは、腐敗を連想させる。
見方を変えると、別の側面が立ち上がってくるという、一種の変身。
さあここであなたは海になりなさい 鞄は持っていてあげるから
「鞄」はそのひとであることの意味。「あなた」の分身は私があずかるから、「あなた」は心置きなく、器としてのからだに海をみたしてゆきなさい。
この場合、変身というより同化かもしれない。でも別の何かになることに変わりはない。
風であることをやめたら自転車で自転車が止まれば私です
ただ自転車に乗っているだけの風景である。それでいて最後まで読むと、まるで夢から覚めたような感覚におちいってしまう。「風」と「自転車」が分離して、「自転車」から「私」が残ることによって、否が応でも個としての自分が意識される。変身の呪文が解けてしまう瞬間だ。
自分がべつの何かに、べつの何かが他のものになるというのは、それ自体が物語の様相をていする、と思う。彼の作品には、短歌のかたちをとった掌編小説が、いくつも見受けられる。
天国につながっている無線機を海へ落としにゆく老婦人
無線機が壊れつつあるため「天国につながっている」なのか、ほんとうに「天国につながっている」無線機なのか。通信相手は誰か。家族か、友人か、恋人か、ペットか。それとも誰もいないのか。なぜ落としにゆく場所が海なのか。
その謎は受け手によって補完され、さまざまな手触りのお話が立ち上がる。
表面に〈さとなか歯科〉と刻まれて水星軌道を漂うやかん
地球になにがあったのだろう。知らず知らずのうちにSFの世界に迷いこんでしまったようだ。「〈さとなか歯科〉」と限定されていることで、かえって想像がかきたてられて、その状況にいたるまでの背景を思い浮かべてしまう。やかんの形は、確かにUFOっぽさがある。
呪文→変身→物語という、超絶個人的な連想ゲームにあてはめて感想を書き進めてしまった。けっこう暴論だったかもしれない。
最後に彼の歌集のなかで、いちばん好きだった歌を引いて終わりにしよう。
ゆびさきのきれいなひとにふれられて名前をなくす花びらがある
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