見出し画像

【短編】父のチェス盤

 父の作ったチェス盤は、知り合いの老紳士のもとに渡り、大酒飲みの彼の息子が質に入れてしまった。たいそうな金額で取引され、息子はがさがさの頬を緩ませながら帰っていった。大金になるのも当然だ。父は屈指のガラス職人なのだ。このチェス盤だって、駒も含めて、全てガラスで出来上がっている。盤の目は互い違いに磨りガラスになっていて、対になっている片方の駒も同じようにきめ細やかに曇っている。
 次の来客にも気がつかず、質屋の親父はチェス盤の細工に見惚れていた。これを誰かの手に渡したくない。自分だけのものにしたい。そう思い、こっそりと家のコレクションに迎え入れたのだ。その後、質屋の親父は病死。チェス盤は彼の友人へ、そのまた友人へ、それから蚤の市で出会った知らない男へ、情婦へ、孤児院へ、カフェの主人へ、好事家へ、商人から商人へ……たいそういろんな人のもとへ渡った。S博物館に寄贈されたこともあるが、不審火で全焼してからは別の博物館に移り、そこも五年後には河の氾濫で水没してしまった。もう誰もチェス盤に触れたがらなかった。それでも、その異常性に惹かれた美術評論家の男が、チェス盤を譲り受け、ときどき記事を書いた。
 彼は毎日のように駒を磨いては、ため息をつき、幼い娘にチェスのやり方を教えては、盤の美しさに心酔した。あるとき娘はチェス盤を持って、父の部屋を訪れた。父は母と裸のまま溶け合っていた。娘はとっさに目を逸らし、廊下を駆ける。あれはなんだったのだろう。考えれば考えるほど、考えてはならないのだと思いこみ、このことは自分だけの秘密にした。
 やがて父が亡くなった。年頃になった娘は、彼の遺品を整理しているさなか、チェス盤を見つけて手に取った。懐かしさで胸が締めつけられる。束の間、あのときの情事がふっと浮かびあがった。どきりとした娘の、白い手からチェス盤がすべり落ちてゆく。ガラスが勢いよく飛び散り、磨りガラスのクイーンも、透き通ったポーンも何もかも砕けてしまった。

 これが父の作ったチェス盤の、呪われたチェス盤と呼ばれたものの最後であった。僕は破片を見下ろして、そっと声を漏らす。

「夏の湖面のみたいだ」

 自分の骨が混ざっているとは到底、思えないほど美しく、僕も彼女と同様に立ち尽くしてしまった。彼女は僕には気がついていない。おそらくずっと気がつかない。僕は破片に触れる。父のもとへ戻れるだろうか。ちりちりと指先が焼けるように熱く、なるはずもなく、光が反射しても眩しいと思う心は、とっくの昔に置いてきてしまった。

 こんなに遠くまで来るはずじゃなかった。父がこの盤でチェスをする日を、僕はただ待ち望んでいただけなのに。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?