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【短編】鳥かごのなかの少年たち

 ……君が人間だったらよかったのにね。って、カケルが言ったから、ぼくはそのとおりになった。夜のあいだだけ、人間になった。どうして昼間は元のすがたのままなのか、考えるまでもなく、彼の言葉が不完全だったからなのだけど、せっかく鳥かごから抜けられたのだ。外へ出てみたい。ぼくはカーテンを引いて、いつもカケルがやっているように窓を開けた。ベランダに足を踏みいれてあたりを見まわす。見わたすかぎり、知らない形ばかりが眼に飛びこんで、知らないひかりがときどきこっちへやってくる。ぼくは急に怖くなった。このからだがどこかに攫われてしまうような感じがした。部屋に帰って、ため息をつく。これではカナリヤでいるときと、何ひとつ変わらないじゃないか。
 ふとカケルの寝顔をながめて、青白い頬にそっと触れてみた。自分のと比べると、とても温かい気がする。もっと触ってみようと手をのばしたとき、彼のまぶたがすっと開いた。ひと呼吸ぶん沈黙したのち、カケルは毛布をつかんで後ずさった。
「君はだれ。どうして僕の部屋にいるの」
 今まで聞いたことのない鋭い声だった。ぼくは彼にいつも呼ばれている名前を、ぼくがチルだということを伝えたかったのだけど、喉がつっかえたようになって言えなかった。だから、代わりに「ヴァイロン」と名乗った。どうしてカケルの部屋にいたかなんて、はじめからいるのだから答えようがない。でもカケルは僕のこのひと言で、心を開いてくれた。
「ヴァイロン! 僕が好きな詩人の名前と一緒だよ!」
 それを知っていたから、わざとやったのだ。案の定、彼は眼を輝かせて詰めよった。すぐに洋灯をつけて詩集を開いてくれた。お気に入りの一節を教えてくれた。でもぼくに文字は読めない。それで少しでもぼくのことを訝しんでくれたらいいと、ぼくの正体に気がついてくれると思っていたのだけど、
「そうか、君、外国のひとっぽいものね。きれいな金色の髪をしているもの」
 そう言って笑うだけだった。

 それからぼくたちは毎晩のように会った。部屋のなかでする遊びにも飽きてしまって、こっそりと部屋を抜けることが多くなった。アスファルトを歩いたり、自販機のかなしいひかりを浴びたり、飲み物を買ったり、飲んだり、分けあったりした。ぼくにとっては全て初めてのことだった。不器用になっているぼくを、カケルは愛おしそうな眼をして見ていた。
「夜と、君は、優しいから好きだ」
 公園のブランコに腰かけながら、カケルは言った。
「昼間と、ぼく以外は?」
 訊かなくても分かりきっている。彼もずっと部屋のなかにいるから、外に出ることがあんまり好きじゃないんだ。
「嫌いだよ、嫌いだけど……」
 ブランコが軋んだ。彼は責めるようなまなざしでぼくを見ながら、静かにまくしたてた。
「どうして君と、夜にしか会えないの。もし昼にも会えるのなら、僕、学校でもどこでも行ってみせるのに。君に会うためならがんばれるのに」
 ぐっと炭酸水をあおって、ブランコから立ち上がると、ゴミ捨て場まで駆けて行った。その肩が少し震えているような気がした。ならどうして、あんな不完全な言葉で、ぼくを縛りつけてくれたんだ。そう言い返したかった。「人間だったら」ではなく、せめて「人間になってくれ」と言って欲しかった。「死ぬまで一緒にいてくれ」とは言わないまでも。
 夜を重ねるたびに、彼のまなざしが熱っぽいものに変わってゆく。カナリヤのときのぼくには決して向けてくれない瞳だ……あの夜の出来事から、カケルは少しずつ部屋を空けることが多くなった。鞄にたくさんの本をつめて朝早くから出かけ、夕方にならないと帰ってこなかった。鳥かごからぼくを出して、一緒に遊んでいるときは大抵、彼は物思いにふけっている。たぶんぼくのことを考えているのだと思う。人間になったぼくのことを。彼の指を少しつつくと、笑って頭を撫でてくれる。でもその手つきは妙にたどたどしい。
 やっぱりカナリヤのぼくでは駄目なのだろうか。翼だけを信じていたときはちっとも夜なんて怖くなかったのに、今はその暗がりに呑みこまれてももがくことすらできないのではないかと震えている。本来のすがたのままでは彼に愛されなくなってしまうと分かっている。それが恐ろしくてたまらないのに、彼にどう伝えたらいいのだろう。ぼくは人間のからだの不自由さを知ってしまったのかもしれなかった。

 その日、カケルはアパートの屋上へ行こうと言い出した。町のあかりに圧されながらも、星はちらちらとまたたいていた。
「やっぱり、ここじゃあ、あまり見えないのかもね。もっと山のほうへ行かないと」
 カケルは星図の本をじっと睨んでは、空を仰ぐ。ときおり強い風が吹いて、ページが乱暴にめくられていった。ぼくはとっさに本をおさえる。
「こんな本、持っていたっけ」
「あ、借り物だよ。みんなよりも授業が遅れているからさ、特別にって、先生が」
「そう。楽しいの、学校は」
「うん……楽しいよ。知るって楽しいことだって分かったよ。あの夜、ああ言ってしまったけれど、やっぱり君にずっと頼っているなんて、格好悪いからさ。それにもう少しで、友達ができそうなんだ。君にも紹介したいな。だから昼間も会おうよ、僕たち」
 彼は寂しそうに言う。これ以上は隠しきれないと思って、ぼくは唇をはじいた。
「……もう、会ってるんだよ」
 これで充分、伝わったはずだ。それなのに言葉があふれるのを止められなかった。
「言ってみて。ぼくに人間のままでいてほしいって。人間だったらって、ひとごとみたいな言葉じゃなくて、ちゃんとした言葉で、ぼくをきみと同じものにしてよ。そうじゃないと、宙ぶらりんなままで、ずっと苦しいんだ。この気持ちをどうしたらいいのか、分からないよ。カケルが帰ってこないと不安なんだ。遠くに行ってしまうかもしれないって怖くなるんだ。ぼくは置いていかれるかもしれないって」
 眼のふちが熱くなって、なみだがこぼれる。からだから吐き出しているものばかりなのに、ずっと苦しくてたまらなかった。
「そうか……ごめんね。チル」
 ぼくは弾かれたように顔をあげて、同時に、からだを縛っていた鎖のようなものが緩まってゆくのを感じた。
「どうして、ぼくだって」
「君がどう帰るのか不思議で、眠ったふりをしてみていたときがあったんだ。でも、ずっと部屋のなかにいるのが分かって……ずいぶん前から知っていたよ……」
 ほっと息をついてフェンスに寄りかかった。背中が網目のとおりに冷たくなる。それがかえって心地よかった。
「なんだ、ばれていたんだね」
「僕のことばが君をこんなふうにしてしまったの」
 カケルはこちらに向かいあった。鋭いひかりが瞳のなかを走っていた。
「なら僕に、同じことをしてもいいよ」
「えっ」
「君のことばで僕を縛って。そう言っているんだ。そしていっしょに、あの星を捕まえに飛び立っていこうよ……だいじょうぶだよ、君にできないってことはないさ。僕は本当に望んでいるんだから……」
 カケルはそう言ってぼくを抱きしめた。息をひそめながら次の言葉をそっと待っている。ぼくたちの鼓動がからだ中にひびき渡って、もうどちらの心臓が鳴っているのか分からない。ぼくはカケルの小さな耳にささやいて、そのからだを抱きかえした。彼はくすぐったそうに笑った。美しいさえずりだった。

※この物語はTwitter企画 #幻想カフカ に寄稿したものです。

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