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幻想ってなんですか

やっっっと読了した!
ツヴェタン・トドロフ著『幻想文学論序説』

幻想的なモチーフが出てくるからといって、それが幻想文学であるとは限らない。ということが、よく分かった。モチーフというと、妖精などを思い浮かべると思うが、寓意(あることを言って、それとは別のことを示しているもの。例えば諺とか)に属するものもあり、一概に幻想とは言えない。

また、禁忌的な欲望をそのまま表出させると、検閲に引っかかってしまうという時代的背景もあった(19世紀頃)。作中人物の抱える欲望を異形の仕業とみなすために、幻想という手段をとる。なんとなく格好いいからとか、おどろおどろしいからという理由だけで、吸血鬼や悪魔を登場させていたわけではない、ということだ。

では、どういった要素が幻想を幻想たらしめているのかというと、それは「ためらい」だと本書ではあらわされている。ある不可思議な出来事が起こったとき、それが怪奇(ひとが起こしているもの)であるか、超自然(ひと以外が起こしているもの)であるか、という判断が、作中人物にも、ひいては読者にもできず、宙ぶらりんな状態のことをいう。真に幻想文学を書くのは難しい。はじめから終わりまで「ためらい」続けなければならないからだ。

幻想は構造であり、ジャンルではない、と思う。ファンタジーは幻想と似ているが、本質は異なっているような気がする。例えば地平ファンタジーの場合、現実(主人公のいる世界)から幻想(異世界)へ至るときには、明確な入り口やきっかけがある。『ハリー・ポッター』シリーズで、主人公がホグワーツ(異世界)へ向かうため、地下鉄のプラットホーム9と3/4番線を通り抜ける(入り口)、といった具合に。そして何より、作中人物たちには自覚がある。今、自分は幻想(異世界)へ行っているのだ、という自覚が。

一方で、幻想は「現実」という名前の広大な土地に引かれた、一本の溝のようなものだ。主人公は知らず知らずのうちに、溝のなかに足を踏み入れていて、違和感を覚えているのに、あたり一面「現実」しか見えていないので、自分ではその違和感が幻想であると自覚できない。幻想とはある意味、現実と地続きなのである。

本書では他にも、批評やテーマ、精神分析、比喩表現、二十世紀の幻想文学についても綿密に論じられていて、とても面白かった。全ては話尽せないのでここまでとする(し、私の読解が正確であるとも限らない)。

読了に時間がかかってしまったけれど、私自身が漠然と感じていたことを言語化してくれたみたいな、すっきりとした感情があった。本当に読んでよかった。よかったけれど、虚しい気持ちになってしまう。私のやりたい文脈はまさしくこれだと思うのに、世間ではもう求められていないものだと感じるからだ。

今では人間どうしの異常な性愛を書いたからといって、厳しく取り締まられることはない。社会的機能としての幻想はとうに消失してしまったので、文学的機能としての幻想をやっていくしかない。それも新しい形にして書かなければ、読者はついてこないだろう。難しい。でも惹かれてしまった。時間はかかってしまうが、書きたいと思う。私は書くことでしか、なにかを成し遂げられないのだ。


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