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【映画感想】CLOSE/クロース

以前から気になっていた映画「CLOSE/クロース」を滑り込みで観た。平日夕方の回のチケットを買ったのだが、ほぼ満席で、パンフレットは売り切れだった。

中学にあがったばかりの少年、レオとレミの「近しい(close)」関係を描いている。ふたりは幼馴染なのだが、中学校のクラスメイトに仲がよすぎることをからかわれたのをきっかけに関係がこじれ、ついにレミの自殺(はっきりとは描かれない)によって決裂する。

私なりに考えたことを書いた。感想というより、エッセイに近い部分もある(物語の核心に触れています)。


1. "Summer of 85"

「CLOSE/クロース」のことを知ったとき、数年前に観た「Summer of 85」を思い出した。エイダン・チェンバースの「おれの墓で踊れ」というアメリカの児童文学をフランスで映画化したもので、監督はフランソワ・オゾンだ。

共通点を挙げるなら、夏から次の夏への1年間の物語であること、主人公の少年たちの親しい関係性、そして、片方の少年が物語前半の最後に亡くなり、後半では残された少年がどのように喪失と向き合うのかを描いていることだ。

実際に「CLOSE/クロース」を観て、両者は似ているようでまったくちがう映画だとわかった。

「Summer of 85」では、ふたりの関係を明確に「恋愛」として描く。少年たちは16歳と18歳のハイティーンだ。私は「恋愛における幸福と喪失」という側面での普遍性がある映画だと思う。

今回の「CLOSE/クロース」が「少年ふたりの近しい関係を描いている」と聞き、私はクィア的な解釈を視野に入れた上で観ることになった。が、本作では、ふたりの感情が恋愛と友情、どちらによるものなのかは最後まではっきりしない。

ふたりがならんで眠るシーンで、レオがレミにオリジナルのおとぎ話をする。兄弟のなかでもっとも美しいアヒルがヘビと出会う話だ。

ふたりの関係性の例えと読むこともできるが、私はここに同性愛的な意味を読みとることに違和感がある。私は、名前がつかなくても自分たちの関係が大切だと感じていることの現れとして受けとった。ふたりの関係をジャッジする他者がまだ存在しない時点での会話だからだ。

(※とはいえ、レオがレミ以外のクラスメイトと交流するなかで描かれる居心地の悪さなど、ジェンダー規範に対する批判的な視点もあった。そのような鑑賞をすることも可能な作品だと思う。)

2. 大人になるということ

中学にあがる前、レオとレミはふたりだけの世界で生き生きとしている。レオはたびたびレミの家に泊まり、ふたりは同じベッドに並んで眠る。レオの家は花き農家なのだが、並んで花畑を駆けていくシーンでは息を飲んだ。

中学でクラスメイトに仲のよすぎることをいじられたレオとレミの反応は対照的だ。

レオが強く「つきあってもいないし、キスもしない」と反論する横で、レミはただ黙っている。その後もふたりがいじられるシーンがあるが、レミが反論したことはなかったと思う。彼は無表情にその場にいて、何も言い返さない。正直、私はここでレミが何を考えているのか、表情だけでは読みとれなかった(私は他人の表情を読むのがもともと得意ではない)。

レオの反応は、自意識の目覚めという意味では年相応だ。「正しい」反応といえるのかもしれないが、これまでと同じくふたりの関係をつづけることはむずかしくなる。

いっぽう、関係をいじられたあとも、レミは態度を少しも変えない。クラスメイトと一緒に原っぱにいるとき、寝そべっているレオのお腹を枕にして一緒にまどろむ(レオはいやがる)。レミの家に泊まるときも、いつも通り同じ寝床で眠ろうとする。ここでレオが強く拒絶することで、破綻しかけていたふたりの関係はさらに悪化する。

当初は、レミが周囲の反応に鈍感で、社会性を獲得できていないように見えたのだが、じつはちがうような気がしてきた。レミは、レオとの関係がもっとも大切で、クラスメイトが何を言おうがどうでもいいことだと直感でわかっていたのではないか。だから、彼がレオに拒絶されたとき、世界から拒絶されたほどの衝撃が走ったのではないか。

レミに対するレオの態度をひどい仕打ちだと思いながらも身につまされるのは、大人になることの一端を目の当たりにしたからだ。ついこのあいだまで簡単にできたことが、きょうになって突然できなくなる。

ロックバンド・Base Ball Bearの「short hair」という曲に、「大切なものだけが大切ならいいのに」という歌詞がある。私たちは、大人になる過程で、大切なものを大切にするには強さが必要だと知る。やがて、その強さを得られないまま生きつづけることもあるのかもしれないと思いはじめる。

レミは僕にとって大切な存在なんだよ、それが友情でも恋愛でも特別な関係なんだよ。以前のレオなら、クラスメイト相手に難なく言えたはずなのだ。レミに、アヒルとヘビの話を聞かせたころの彼なら。

3. もがく身体

レミがいなくなっても、レオが泣き叫んだりわめいたりすることはない。彼の悲しみはいつも静かだ。私が強く印象に残ったのは、少年の身体性をとらえたシーンだ。

レミとの関係に亀裂が生じてから、レオはアイスホッケーをはじめた。レミがこの世を去ってからも、ホッケーのシーンは頻繁に出てくる。ホッケーをするときのレオは、身体を防具でがちがちに固め、足場の悪い氷の上で激しく動きまわる。固い氷の上で何度も転ぶシーンは、葛藤を表しているようで、観ていて痛みを感じた。

スケートリンクを訪ねたレミの母は、防具をつけたレオに「強そうね」と声をかけた。レオは居心地の悪そうな表情を浮かべていた。

物語の終盤、レオは試合中に腕を骨折してしまう。医師に包帯を巻いてもらいながら、黙って涙を流す。腕が痛かったことが理由ではないのは明確だ。防具を脱ぎすててはじめて、自分が傷ついていることに気づいたのではないだろうか。

4. 時間と季節

項目1で書いたとおり、「CLOSE/クロース」は夏から夏への物語である。時間は前に進むが、季節はめぐるものだ。

レミ亡きあと、彼の両親とレオの家族が食事するシーンがある。仕事について尋ねられ、レミの母親は産科で働きはじめたと答える。レオの兄は試験を控えている。「試験が終わったら、勉強にも飽きたし恋人と一緒に旅行に行くんだ」と彼はつづけた。

そのとき、レミの父がこらえきれず泣きだしてしまう。レオ一家にある未来は、彼らにはもうない。今日より明日、明日より明後日、今年より来年……。私はレミの母が「産科で働いている」ということが皮肉に思えてならなかった。

前述したが、レオは花き農家の息子だ。久しぶりにレミの家を訪ねたとき、家業について訊かれた彼は「植え付けをやっているところだ」と答える。新しい季節を迎える準備をしているということだ(レミが亡くなったあとのレオは、家業を積極的に手伝うようになっている)。

映画後半では、レミの母親とレオの対話がとても重要なのだが、この会話のあと、物語は大きく動きはじめる。

5. 「あわれ」

レオがつぎにレミの家を訪ねてみると、夫婦はすでに引き払っていた。映画には、レオ一家に別れを告げるふたりの姿は描かれない。幼馴染の行動が我が子を自殺に追い込む原因となったとはいえ、長いつきあいの家族に挨拶ひとつないのは不自然かもしれない。しかしここでは、レオは、レミの両親がいなくなったことを知らなかったと考えたい。

ラストシーンの手前、空っぽになったレミの家にたたずむレオの姿を見て、心理学者の河合隼雄が日本の昔話について書いた文章のなかに、結末に生じる「無」についての指摘があったことを思いだした。

手元に資料がないため正確な引用ができず恐縮だが、日本の昔話の結末は、まるで「何も起こらなかった」ように見えることが多いのだという。しかし、河合はここに「無が生じている」と考えた。何も起こらなかったように見えても、物語によって始点と終点を結ぶ円が描かれていて、そのなかにすべてが内包されて「ある」と分析したのだ。

「無が生じる」結末は、受け手に「あわれ」という感情を生み出すという。レミの家を訪ねたシーンで観客が感じるものは「あわれ」に近いと思う。

6. イニシエーション

この映画を観る人たちの誰もが、私も含め、レオと同じような経験をしているわけではない。それなのに、彼の経験する「喪失」に普遍性を感じるのはなぜだろう。

映画開始当初は、ふたりが横並びになる構図の多さからも、レオとレミがひとつの世界で生きていることを強く印象づけられる。ここでは、彼らが経験するできごとを、ひとりの人間のなかで起きていることとして見てみたい。

項目2でも書いたが、大人になるには一度、子ども時代の能力を失う必要があった。その意味で、レオがレミを何らかのかたちで失うことは運命づけられていたといえる。中学校という社会で生きていくうえで、レミとの関係は変化せざるを得ない。

私にも似た経験はある。対象を友人にかぎらず、音楽やアニメ、大好きだったキャラクター、夢中になったスポーツなどに置きかえてみてもいいだろう。振り返ってみて、あんなに好きだったのに、あんなに大事だったのに、というものの多さに、私は愕然とする。映画冒頭でふたりが夢中になっていたはずの遊びに、乗り気ではなくなっているレオのシーンは印象的である(ちなみに、レミは楽しんでいる)。

レオの冷たい仕打ちに耐えられなくなったレミが、学校で感情を爆発させるシーンは、観客の多くが痛みを感じただろう。何かを失おうとしているとき、それを自覚することは、実はまれだと思う。

とはいえ、失ったものを永遠に取りもどせないと言い切ってしまうのも、また正確ではない。大人になるときに経験するのは喪失だけではなく、失ったものとの関係をべつの回路で回復することをも含む。

レオは、レミとの関係を修復する機会を永遠に失ったかに見える。が、後半で描かれるのは、大切な人の喪失と向きあう=別の回路で関係を回復するためにもがく彼の姿だ。喪失によって受けた傷を受け入れたレオは、片腕にギプスをつけ、レミの母親のもとへ出かける。レオの葛藤を知り、一度は拒絶したものの、彼女はレオを抱きしめる。

昨年の夏にレミと並んで走った花畑を、レオはひとりで歩む。カメラは後ろから(過去から)追いかける。この夏に咲いた花は、彼も植え付けを手伝ったはずだ。立ちどまって振りかえったレオが再び歩きだしたところで、映画は幕を閉じる。

7. 蛇足

Z世代(もしくはアルファ世代?)が主人公の話なのに、スマホがまったく映っていないことが印象に残った。「演奏をYouTubeにあげよう」というレオのセリフが浮いて聞こえるほど、ガジェットの影がまったくない。PCを触る場面すらなかったはずだ。レオが目覚ましを止めるシーンがあるのだが、手は見切れていて、おそらくスマホの目覚ましアプリを使っているのだろう……という程度にとどまっていた。

不自然に思う観客もいるのだろうが、私にはありがたかった。

私はZ世代とミレニアルの中間の世代だが、いまほどSNSその他が発達していないころに子ども時代を送った。現在、リアルタイムで少年/少女時代を送る観客だけでなく、私のような年長のZ世代以上の年齢層が見ても、疎外感なく物語に集中できる工夫だと思う。


以上、とてもいい映画に出会うことができて嬉しかったため、つい長々と書いてしまった。ぜひいろんな方に観てほしい作品だ。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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