AKIRA『テクノ・リバタリアン』橘玲

XーMENの世界は、あらゆるメタバースを、統合し引き離す、私は観たことがないのだけど、その世界はディストピアであることによってヒーローは誕生する。

この本の基本的な構造です。

ここでは、AKIRAという語によって、SFの世界観設定で生きること、私たちの現実世界の、世界観設定とします。

この点では、真のSFとは、現実の世界観設定に無いもの。

物語的な想像力は、そこからの逸脱を追求して、つまり存在しないものについて描かなければならない。

ここに映画は、不思議なSFという概念に思いがつのる総合芸術となる。

その為に映画館の、最も暗い暗室が用意されているのだから。

・構成

著者の主張は、閉塞感ただよう現代社会は、リバタリアンの価値観が徹底される事によって解決されるであろう。

まず、政治思想のポジションを説明し(右から左)、ここでは中央に位置する功利主義的な思想を検討していきます。

ジョナサン・ハイト(保守的なイデオロギーを強く持つ)の図式を用いて、左右の思想の拡張を意図して、功利主義的な思想の重要性を強調します。

著者の主張で、過激な部分は現代思想批判にあります。

一方で、過激でない部分は、現代のプラットフォームをめぐる企業の競争については、事実として捉えている。

功利主義的なものは、トロッコ問題のような生死を判断する生命倫理には踏み込まず、もっぱら政策判断に使われます。(金額で判断できる様な、選択には有効とされている)

英国ベンサムの量的功利主義の、快楽を最大化するタイプから、ミルの質的功利主義へと改善は、現実的な方法論になっていると思います。

(この場合、功利主義の倫理的な選択は、国や地域によってパターンが異なるし、状況や時代によっても異なるので、今のところ絶対的な解決策はありえない。)

ここでの功利主義は、テクノロジーによるリバタリアンにより達成される世界観ということになります。

この場合は、XーMENの「X」が何を表すという事だけど、これは極度にイデオロギー的な問題で、哲学や思想の助けがいる。

このあたりを、考えるのに本書はとても優れている。

・それから

一つの事実は、社会では複数の考えによって成立するが、不確実なのは、ビジネスの進展として独占が問題視されるのは、全てディストピア化した後である。

この場合、100億人の無気力は、1人の気力とイーブンしてしまう。

本書でイデオロギー主義者として登場するハイトの論理を用いれば、民主主義は前提があるので、ある種のリベラリズムは成立する(過激はダメ)。保守主義は、ふところが広い(多くのハッシュタグを持つ。価値観の限定された意味での多様性を持つ)。

イデオロギーとしての保守主義は、大らかさを、持たなければならない。この点では属人化したポピュリズムは、洗練された戦略である(私は賛成しない)。

リベラリズムの難解さは、政治学を近代国家の誕生から社会契約を検討し、ますます肥大化する価値観を、学問的に統合しなければならない。

このため、政治家は哲学者でなければならない。(これは、日本の場合は「法律」のエキスパートである立法(国会)のみに限定された卓越性である。私見では、20世紀はそれで良かった。)

映画『トゥモローワールド』。全てが不可能である事は、映画では唯一のフィクション設定の世界観であるディストピアは、常にくつがえされる事を欲望される。

それは、喜劇か悲劇か。ハッピーエンドは、常に過去の苦い思い出以外ありえない。

私の主張のまとめ。

橘玲によるテクノリバタリアンは、数多くある政治形式のうちの、ひとつである。この場合は、少数の卓越性を過大に評価する点では問題がある。寡頭制批判。

保守主義の問題点を考え、それをベースにした功利主義の発展というSFの問題です。

一方で、テクノロジーによる社会の進歩は、経済原理を前提としたものである以上は、現実的な解決策の一つになる。

これを踏まえて考えると、現実はSFの仮定を除去した部分にあるが、リアリティの問題は難問となり、個人の存在・実存は考慮されなければならない。

現実の統治上の問題です。

真に不思議なのは、SFではなくて、現実の世界である。

加速するプロセスは、今を、過去と未来にわける、その部分であり、全体ではない。

特に、著者のダークな思想観については、本当なのか、嘘なのか。わからない点には注意です。

私の考えでは、全てジョークとして書いていると思います。

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