見出し画像

悪の『スピノザ』國分功一郎

岩波新書とは、荘厳な文体とカテゴリーとして一般教養を、入門・発展の2タイプで表現する。

なぜ、あまりにも難しい「発展」なのか。このスピノザは。

ここでは悪を語ります。

これって、この本に無い部分に注目することです。

・書かれていること

・書かれていないこと

ここに注目すると、スピノザはアーレント論になります。

2500文字。長め。


アーレント研究会

國分功一郎のアーレントは、スピノザとの二項対立として描かれます。

(彼女は)「終始批判的だった」(『読本』法政大学出版)

これは、スピノザの「自由の否定」についての見解であるし、両者が(本物の)哲学者であるという証拠になります。

アーレントの「単数性」「複数性」の概念を、「可死性」「不可死性」を伴う人間の営みとするのが、政治哲学です。

要するに、作者は死んでも、作品は死なない。これを、あらゆる公共的なものとする自由が重要です。

國分は、アーレント研究会(学会)所属しているし、近年のテーマが悪だ。それは総合して、私が考えた「まとめ」だし、最近のキーワード「目的」は倫理をめぐるジレンマで、それはアーレントの生きた歴史軸による。

これにはアーレントの思想のポジショニング戦略を考えなければならない。

アーレント概念集

1、師匠ヤスパースの論破。

ニーチェとウェーバーのフォロワーとしてヤスパースは、ドイツ保守主義的なものを標榜したが、それはアーレントの生にとって何ら意味を持たないものだった。

→軸(枢軸)の時代のヤスパースは、統一的な歴史哲学を肯定するが、歴史軸の今に依存する。問題はドイツの戦後・戦前の区分です。『全体主義の起源』

この場合、考えるのは1930年代、40年代のドイツです。

→一方で積極的な意味では、ヤスパースの偉大さは変わらない。実存をきちんと論じている。

よって、論破を恐れるべからず。(学問の話です)

2、フランクフルト学派との対立。

この亡命ドイツ人のグループは、フロイトとマルクス・フォロワーズで、時々ニーチェの学派です。

『愛について』のあの人もいます。この作品は『自由からの逃走』フロム/トゥー(から/へ)の自由論の姉妹作。「全体主義」批判。

→一般的には、アーレントはフロイト心理学が嫌い。マルクスは『人間の条件』労働(laber)の章で検討されます。

この点は、本書『スピノザ』では「欲望」による意識を、フロイトとの関連で論じています。

ここから、ドゥルーズ・ガタリ『アンチオイディプス』は、そう遠くないように感じます。

アーレントとドゥルーズの関連性が検討する。

3つ目は、柄谷さん。

3、アーレントの権力論。

「単数性」「複数性」の概念を、「権力」と「暴力」の関係性でとらえ直したもの。「暴力」による統治と異なり、「権力」人々の間にある正統と正当である。

柄谷行人『哲学の起源』でも、ハイデッガー・アーレントのギリシャ哲学が考察され、その要点として取り上げられている。

フーコー(主に中世)とアーレント(近代)の政治哲学を、時間軸で検討するのが「ホモサケル」プロジェクトのアガンベン。

イタリアの思想家です。古代ギリシャの引用が、現代思想の相対的なポジションから力強く展開しているので圧巻です。政治哲学の脱構築と言いましょうか。

國分「中動態」との関連性が重要すぎる訳です。

構成のイミテーション、21世紀のスピノザ

國分『暇と退屈』は、物語である。

『スピノザ』も、物語である。

軽く分析すると、スピノザとライプニッツが鮮やかに描かれる冒頭部分に注目します。

ここは、深読みすると、現代のドゥルーズ読みが、二項対立(ここではスピノザとライプニッツ)に集約されてしまうのを、少し内省している。

2人の哲学者の評価を保留して、ドゥルーズよりも奥ゆかしい批評なっている。

君たち、どちらも正しい。

構成として、『エチカ』の執筆中断を、思考のダイナミズムとして、語り掛ける筆致に注目です。

アニメの次回予告で、引っ張っていくような面白さ。

新書の「古典」

國分功一郎はドゥルージアンである。

本書のコード。3点です。

1、スピノザとアーレントの自由をめぐる対立

これは哲学者の思考の営みでした。(前述)

ここは、國分さんの、社会批評的な側面が極めて強く感じます。

2、アーレントからシュミットの権力をめぐる対立

本書ではスピノザとホッブズの権力についての相互フォローを検討していました。國分はこれを、ジョルジョ・アガンベンの「ホモサケル」と同様の問題意識として考えているようです。

本書では、潜勢力のようなアガンベンの用語を唐突に使用しているし、その概念を縦横無尽にスピノザ解釈に利用している。

同様に、アーレントの引用も匿名性を意識している部分が多い。

まるで『ラ・ラ・ランド』のオマージュ研究だ。

(寡聞な私は、映画史を知らず、わからないことだらけ。一言でいえば、フランス現代思想的な作品)

3,概念の中立。中動態の相互補完。エクリチュールの多義性。

難しくなったので、ここで止めます。私の指が書いたのだが、頭は、ついていけません。すいませんでした。

この本の難解さを表現しているのだと思います。

最後に

このようなスタイルによって、物語のような引き込まれる作品になっています。

さらに、哲学史としての議論をカットして、難しくなりすぎないように配慮している。

ニーチェ「系譜学」という用語を、日常の用語して用いている。(これは、フーコーを意識したものです。)

國分功一郎さんが、ドゥルーズを超えていると自称する。その意味は。

今日的な「スピノザ解釈」+独自の「物語の構成(想像)力」だと言えます。

これは、時間軸の現在性であって、けっして過去の思想家が劣る訳ではない。

時をかけるスピノザ。

学問の論破が重視される潜勢力。

國分さんの、ドゥルージアンとしての本領が、あらゆる面で展開されている。

スピノザで悪。

哲学史としての「読む人の肖像」は、國分/日本哲学は、夜明け前のぬくもりを、強烈な自己分析(精神分析)として存在する。

よみ人知らず、何も知らない私・自己のレベルアップを図る。

大変勉強になりました國分せんせい。何度でも振り返りたい新書の「古典」でした。

いいなと思ったら応援しよう!