「推し」は私の何なのか

「推しは酸素!!!!」
私が中学生の頃、周りに迷惑がられるほど言っていたワード。あの頃はこの言葉が流行っていたような気がする。

推しは酸素であり、「無くてはならないもの」だった。と、思い込んでいた。

私の推しは、昔から変わらずとあるバンド。推しはその後俳優や配信者や踊り手や…と増えたけど、一番最初にできた推し、という意味でも彼らは特別。殿堂入り。

中学生から高校生にかけて、そして今も、私は昔っから「生きづらいなあ」と思っていた。

生きづらかった時にテレビで見かけた彼らに一目惚れし、そこからずぶずぶと沼に浸かった。そしてもう9年ほど推し続けている。受験の前や大事なステージの前はもちろん彼らの曲を聴いた。ストレスが溜まって疲れてくると彼らの曲じゃないと回復しない!ということに気づいた時はかなり驚いた。

親や友人と比べて、圧倒的に「私を救った」回数が多い。私が頼った回数も多い。それでも私は推しを「酸素だ」と言っていた。

芥川賞受賞作品「推し、燃ゆ」では、推しは背骨だと表現されていて、そこでストンと何かが解決した。

推しは酸素じゃなく、背骨だった。私が立っているために必要な骨を育ててくれた張本人だった。「酸素」という取り込むもので居続けているはずがない、もう私の一部なのだ。

あ〜!なるほど!という表現がこの作品には多く登場する。推し方は多くあって、「なんだこれ、理解できない」となる人もいると思うけど、少なからず私は、割と主人公と同じだった。だから、この推し方とこの生き方が選択肢としてあることが認められた気がして嬉しかった。

今でもずっと生きづらいけど、この推し方が私を支えたことは間違いない。小説として読むと笑えてしまうくらい真っ直ぐに推してきたんだな、と思えてきて、その後推しのライブのブルーレイをポチりました。

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