音楽と人の距離

最近読んだ本の中に、野外フェスについての記述があり、少し気になっていた感覚があった。

いい音質で、現実の音を遮って、わたしの日常を背景にして、音楽で満たさないでほしい。

(中略)

音楽はどこまでも「聞く人間」のものにはならないと思い知る。
最果タヒ「『好き』の因数分解」リトルモア


先日初めて、野外フェスに行った。私は横浜の潮風に吹かれながら、聴いたことのない音楽に自然と体を揺らしながら、この言葉の意味を実感していた。

音楽は誰のものか。
それは作った人のものである。フェスという空間に身を置いて、このことを最も強く突きつけられたような気がした。

音楽は、それを作った人のものでしかない。受け取る側はそれを独占することはできない。

だけど、私が日常で音楽を摂取するときは大体イヤホンをしていて、物理的に音を自分の耳に閉じ込めている。そうすると、自分の視界が急に密着カメラの如く客観的になり、私が主人公のPVが始まる。これが私に、音楽を独占しているように錯覚させている原因だと思う。

フェスで隣にいる友達に調子を合わせながら、ぼんやりとずっと考えていた。
これだけ大人数で同じ音楽を聴いているのに、この音楽はその誰のものでもないんだな、と。音楽と人のこの距離感に、少しだけ傷つきながら、この事実に触れることができたことに充足感を覚えた。

他人がこの事実とどう向き合っているのかはわからないが、音楽とどんな距離感を持って聴いているんだろう。もしかしたら、この切なさに病みつきになって音楽を聴き続けている人もいるのかもしれない。私もそうなるのかな、でもイヤホンで聴いたら、また自分のものにしてしまうのかな。

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