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祖母、グレる

新卒の頃から使っていたカーテンが、引越し先の窓に合わなかった。
大学の卒業式と同時に一人暮らしデビューを果たし早7年。入居したその足で買った無印良品のドビー織ノンプリーツカーテンは、その後5回に渡る引越しについて来てくれる相棒となった。心底気に入っているわけではないが、新入社員から三十路になるまで、衣食住を共にした相棒を手放すことに抵抗感がある。

学生時代の家庭科の成績は2だったが、この手直しは自分でしてやりたい気分になり、父方の祖母に教えを乞うことにした。
祖母と一緒にカーテンの丈詰めをするべく、ダウンロードしたミシンの使用説明書を片手に実家に向かう。裁縫上手で、子供の頃は服やぬいぐるみ、大人になってから鍋つかみやポーチを作ってくれたやさしい祖母は、もう、針に糸を通すことができない。2年前に認知症を発症した祖母の脳は、ミシンの使い方も忘れてしまった。

実家につくやいなや「ここからは時間勝負」とばかりに作業に取り掛かる。裁断箇所に線を引き、裁ち鋏で潔く切り落とす。
祖母は「縫い代を取れ」とわたしを叱りながら、手際良く次の段取りの準備をする。わたしは適当なところに放置されたマチ針を、祖母に気付かれないようにそっと裁縫箱の中に戻す。
ああじゃない、そうじゃないと喚く声を聞きながら、ミシンを使用説明書通りにセットアップする。そのあまりにも簡単な手順に、祖母がわすれたものの大きさに気付かされる。

やさしくて、愛情深くて、穏やかだった祖母。
人当たりが良く賢明で聡明で、出会う人全てを愛し、愛される。無条件に孫を可愛がり、無償の愛情を注ぐ。誰がどう見ても「完璧な祖母」だった。
そんな心優しき完璧な祖母は、認知症特有の被害妄想故に頻繁に父と喧嘩するようになり、最愛の孫であるわたしにヤジを飛ばすようになった。言った言わない、やったやらないで怒鳴りあう父と祖母を見ると、完璧主義者の果ての姿を見ているかのような気分にさせられる。

祖母の完璧主義は息子である父に引継がれたが、その娘であるわたしは「極めて不完全」な人間に育った。父と祖母が難なくできる事も、わたしには難しい事が多かった。
そんな己は祖母の「愛」を受ける価値がないように感じて、祖母の喉から発せられる言葉に恐ろしさを感じていた。物心がつく前の、ずっと幼い頃から。
目にはまぶたがある。でも、耳にはそれがない。閉ざすことのできない耳に入ってくる、祖母からの愛情。
それは「血族として愛されるに相応な完璧な人間で在れ」というプレッシャーだったように思う。

使用説明書の手順がおかしいと、口汚く文句を垂れ流す祖母にお茶を勧める。次の瞬間には日本茶の話題に変わり、お茶菓子の準備に取り掛かる。

この世にはもう、わたしの完璧な祖母は存在しない。
わたしの祖母は、まだ生きている。
その事実が、わたしを深く安心させた。

休憩が長すぎると痺れを切らした祖母は「しつけ縫い手伝う」と宣言し、裁縫箱から糸と針を取り出す。糸通しに憤怒する、一回り萎んだ背中と骨ばった首筋を見て、祖母が間違いなく「死にかけている」ことを認識する。
その背中にそっと抱き着いて、小枝のような指先を見守る。震える糸先は針穴を求め、迷い続けている。

「すっかり、私の方が小さくなっちゃったわね。」

祖母は手を止めずに静かに呟く。糸先が針穴をくぐる。わたしは止めていた息を静かに吐き出す。

――うん。でも、裁縫は、死ぬまであーちゃんのほうが上手だよ。

マチ針とマチ針の間を、迷いなく真っすぐ、器用に通り抜けるしつけ針を見る。糸がミシン糸であることは、気付かないふりをした。

「きっと、上手になりますよ。ユウカちゃんは、私の孫なんだから。」

ミシンに文句を言う祖母と打って変わって、穏やかな口調でそう語る。
祖母は、わたしには、いつでもやさしい。

――あーちゃん、最近口悪いよね。でも、その方が絡みやすくて正直ありがてぇなって思ってるよ。

やさしい祖母の、意地悪を指摘する。祖母はわたしの10倍の速さでしつけをしながら、事も無げに呟く。

「最近ね、反抗してるのよ。だって、お父さん、口うるさいんだもの。」
「私ね、グレちゃったのよ。夜だって毎日、寝る前にアイス食べちゃう。でも、別に良いの。もう死ぬんだもの。好きにしたって。口が悪いのだってね、誰にも迷惑かけるわけじゃあるめぇ。お父さんとユウカちゃんの真似してんのよ。」

――え、待ってよ。それってつまり、口が悪いのは、親子三代の遺伝ってワケ?

「そう。私はお父さんのお母さんで、ユウカちゃんは、お父さんの娘ですからね。」

しつけを終えそうな祖母の指先を見つめる。そこに「おなじもの」があることを感じて、ふと、その手に触れたくなる。
しつけが終わった祖母の手を握る。祖母は力いっぱい握り返す。硬くてシワシワで、あたたかい手。わたしを安心させてくれる、やさしい手。

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