マガジンのカバー画像

散文韻文

113
日記など
運営しているクリエイター

2021年8月の記事一覧

引用日記⑱

だとすれば,ここではもういちど,ジューチカの死がペレズヴォンの導入で乗り越えられたように,イリューシャの死についてもまた乗り越えの道筋が示されねばならない。そして山城と番場は,まさにそのためにこそ,ドストエフスキーはここで最後,コーリャにカラマーゾフ万歳と叫ばせたのだと考えるのである。番場は次のように記す。「イリューシャがイリューシャであったことが,そもそもまったくの偶然であった。新しい「よい子」がやってきて,父親とともに新しい関係を始めることは十分に可能なはずだ。よみがえっ

引用日記⑰

重要なのは,ペレズヴォンがペレズヴォンでありながら同時にジューチカでもありうること,イリューシャがそのような思考の可能性に気づいたことである。ジューチカがジューチカだったこと,考えてみればそれそのものが偶然だった。そもそもそれは野犬の一匹にすぎなかった。だからぼくたちは,ジューチカが死んだあとも,もういちどジューチカ的なるものを求めて新しい関係をつくることができるし,またそうすべきである。それが生きるということだ。山城はつぎのように記す。「ペレズヴォンがジューチカであることに

引用日記⑯

 「団栗(どんぐり)」の結末で、寅彦はドングリを拾う無邪気な遺児を見て、「始めと終わりの悲惨であった母の運命だけは、この子に繰り返させたくないものだ」と述懐する。「終わり」は理解できるが、「始めの悲惨」については不明とされていた。山田さんの推測通りなら、その意味が了解される。  寅彦は夏子を忘れられなかった。  「団栗」はじめ、いくつかの随筆にさりげなく登場させている。随筆を書くときは「吉村冬彦」というペンネームを使った。吉村は寺田家の先祖の名字であり、冬彦は「夏子」のイ

引用日記⑮

「顕在的体験は、非顕在的体験の“庭”に」 (III.78) 、すなわち、「規定可能的未規定性の地平に取り囲まれている」(III.101) 。非顕在性とは、潜在性のことであり、可能性のことであるが、それは、空虚な論理的可能性ではなく、「類型」的に予描され動機づけられた可能性である。その意味において、「すべて顕在的経験は、自らを越えて、可能的経験を指示している」(III.112) 。それ故、志向性は、顕在性において「遂行」されていなくとも、非顕在性において既に「発動」している(I

引用日記⑭

男は食べ終わると短冊にした古い辞書で巻いたイタドリタバコを吸った 野崎有以「密造酒「チルチルメチル」」『ソ連のおばさん』(思潮社、2021年)

コアラのマーチ

宮田は昨日の喧嘩のことで頭がいっぱい。恋人のミドリはふだんからとても表情の変化が豊かで、いろんな種類の感情を持っているしよく溢れさせる。一緒にいるとどんどん新しい顔を見せてくれるから宮田は毎日はじめて見る表情をゲットしてこつこつコレクションしているような気持ちになれる。いちいち写真に撮るわけでもないからそのコレクションは宮田の目の奥に、記憶のなかにだけある。むしろスマートフォンのカメラロールのなかにはほとんどミドリの写真はない。ぼくたちはすぐに会える。学校で、公園で、ミスドで

引用日記⑬

「きれいだわ! きれいだわ!」 どこにでもあるようなうどん屋のメニューを見ておばさんは興奮した おばさんの感嘆する言葉のなかに異国のなにかを見たような気がした 「メニューの写真がきれいだからしばらく見ていてもいいかしら」 うどんを注文したあともおばさんはメニューをまじまじと眺めていた 野崎有以「ソ連のおばさん」『ソ連のおばさん』(思潮社、2021年)

引用日記⑫

読書に没頭していた客には迷惑だろうが 退屈そうに外を見ていた客には清涼剤だろう 野崎有以「メキシコの情熱」『ソ連のおばさん』(思潮社、2021年)

引用日記⑪

この辺は長崎という地名だから 夕焼けの時だけ長崎がみえるような気がしていた 野崎有以「ネオン」『ソ連のおばさん』(思潮社、2021年)

ある日、唾を、飲んだ

ある日、唾を、飲んだら左右両方の耳が強烈にキーンってなって焦った。聴こえ方が一瞬おかしくなって怖っ!ってなったのだけれど、しばらくしたらもっと変なことに気づいた。妙に聴力が上がった感じがするのだ。窓を開けるとこれはふだんから聴こえる近所の商店街のざわつきに加え、すこし離れたところにある小学校のチャイムや子どもたちの声、校内放送の男の声までがかなり鮮明に聴き取れる。さらに集中してみると、あらゆる方角からの自動車の走行音やクラクション、どこかで電話していると思しき女の声、そしてそ

引用日記⑩

 できることなら、できるだけぶっきらぼうに詩を書きたい。内容はぶっきらぼうな詩も、ぶっきらぼうでない詩もあろうけれど、書き方はぶっきらぼうに。  けれども、いつも事志に反してしまう。  徹底してぶっきらぼうに書くならば、最後は詩なんてものを書く必要もないところまで行くのだろう。けれどもその時、実はいちばん詩が書ける状態に居るのでなければ、意味がない。単なる枯渇にすぎないだろう。  なぜこんなことを考えるのか、よくわからない。  私は詩というものを無用なものともくだらないものと

引用日記⑨

大森の珈琲亭ルアンには「メキシコの情熱」という飲み物がある 野崎有以「メキシコの情熱」『ソ連のおばさん』(思潮社、2021年)