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ピエール・ユイグ Liminal: 人間のいない世界を表現する

現代美術家ピエール・ユイグと私の研究室との間で、新たなコラボレーションが実現した。

2023年夏、ユイグから私宛てに一通のメールが届いた。それは、ヴェネチアのPunta della Doganaで開催予定の個展に向けた依頼だった。Punta della Doganaは、イタリア・ヴェネチアにある歴史的な建築物で、かつては海上貿易の監視と税金徴収のための税関として利用されていた。現代においては、フランソワ・ピノー財団により現代美術の展示スペースとして再生されている。このプロジェクトで、建築家安藤忠雄氏が、建物の歴史的な外観を保ちつつ、内部を現代美術展示に適したスペースへと変貌させる設計を行ったことで知られる。

ユイグは、彼の著名な作品のキャラクターである「Anlee」についての脳内イメージを生成して使いたいと考えていた。さらに、その画像をもとに3Dオブジェを制作するというアイデアも提示された。この依頼に対し、研究室の田中美里さんとともにプロジェクトに取り組むことにした。ユイグのスタジオから送られてきたAnleeの素材を利用して、被験者の脳活動計測を行った。そこから得られたデータをもとに、画像の生成を試みた。ユイグのスタジオとの緊密な連携のもと、パラメータを調整しながら大量のビジュアル素材を作成した(Anleeの素材など、詳細は伏せておくことにする)。

そうして生まれた作品は、他の新作および旧作とともに、2024年3月17日からPunta della Doganaで始まったピエール・ユイグの個展「Liminal」に出展されている(会期は2024年3月17日〜11月24日)。

私自身もオープニングに参加し、会場に展示された数々の作品を直に鑑賞する機会に恵まれた。本記事の冒頭のサムネイル写真は、Punta della Doganaの入口の様子を捉えたものだ。看板に使われている絵は、私たちが提供した脳内イメージ画像の一部である。写真の左奥にはサンマルコ広場の鐘楼が見える。

本記事では、このAnleeの脳内イメージ再構成の背景を備忘録としてまとめておきたい。また、ピエール・ユイグとのコラボレーションに至った経緯や、作品の背景、自分にとっての体験の意味を考察してみたい。

ピエール・ユイグとの過去のコラボ

私たちとピエール・ユイグとの協力関係は、2018年にロンドンのSerpentine Galleriesで開催された個展UUmweltに始まる。Serpentine Galleriesの公式サイトや解説動画でも紹介されているように、この展示では、脳活動データから解読した視覚イメージが大型ディスプレーに提示される。これはユイグが提供した素材をもとに、我々が被験者の脳活動データから生成したものだが、ここに「ひねり」が加わることで、単なる科学データの可視化を超えて、現代アート作品となる。その「ひねり」とは、展示会場に数千匹のハエを放つという驚くべき介入だった。この斬新な「ひねり」が作品にもたらす意味と効果については、後ほど詳しく論じることとする。

https://www.youtube.com/watch?v=enx-vyWn7UU

UUmweltの後、2019年にはユイグがアーティスティックディレクターを務めた「岡山芸術交流」でもこの脳内イメージを利用した作品が展示された。岡山芸術交流は、ハードコアな現代アートのイベントとして知られている。その独特な雰囲気については、以下の記事が参考になるだろう。

また、ユイグとのコラボを含む、私とアートの関わりについてまとめた下の記事も参考にしてほしい。

UUmwelt:環世界の壁を超えて

今回のPunta della Doganaでの展示は、2018年のUUmweltをベースにしている。この作品のコンセプトを理解するには、タイトルの「UUmwelt」の意味を説明する必要がある。これはユイグが造語した言葉で、ドイツ語のUmweltにUを加えて「Un-Umwelt = UUmwelt」とすることで、Umweltの否定を表している。

UのないUmweltはドイツ語で環境を意味するが、生物学者のヤーコプ・フォン・ユクスキュルが提唱した「環世界」という概念としても知られている。環世界とは、動物の種ごとに特有な知覚世界があるという考え方だ。たとえば、ユクスキュルの著書『生物から見た世界』で描かれるダニは、視覚や聴覚がなく、温度感覚と限られた嗅覚だけで構成された世界に生きている。同様に、ハエもヒトとは全く異なる環世界を持っているだろう。

この概念は、唯一の客観的世界の存在を素朴に想定しがちな我々に反省を促し、多様な世界のあり方に目を向けさせてくれる。また、カント以来の近代哲学に通底する「認知を通してしか世界を知ることができない」という考えとも共鳴している。

(Uが一つ多い)UUmweltはその環世界の壁を取り除くことを表現している。「脱環世界」と訳せるかもしれない。 種や個体を超えた知覚や存在の可能性を探る試みと言えるだろう。

この作品のコンセプトは、「ヒトとハエが心を通わせる」といった単純なものではない。ユイグの作品の背景には、思弁的実在論やオブジェクト指向存在論と呼ばれる哲学がある。そこでは、実在や世界を人間の精神との関係を通して考える「相関主義」が批判される。Umwelt(環世界)の考え方も相関主義の一種だといえるだろう。それぞれの主体が独自の環世界を持つという考えは、極端に推し進めれば、共通の客観的現実の存在を否定する相対主義に陥る危険性をはらんでいる。この作品は、「物自体にはアクセスできない」や「脳内のモデルを通してしか世界を認識できない」といった、脳や心の問題に興味のある人には比較的常識的な考え方を否定するのである。

2018年のUUmweltの内覧会で行われたキュレーターのハンス・ウルリッヒ・オブリストとの対談で、ユイグは「人にものを展示するのではなく、逆に、ものに人を展示したい」と語っていた。つまり、この作品は単に「AIが解読したヒトの心の映像をハエが見ている」のを来場者が観察するというものではない。来場者自身もその環境の一部となり、「見られる」存在になるのだ。さらに踏み込めば、「見る・見られる」という関係性自体を否定し、人工物、生物、人間が互いに無関心に共存している状態を表現しているとも解釈できる。

UUmweltに対する美術評論家による批評では、脳から直接画像を生成する技術自体が、新しいアートのスタイルだと評価された。確かに、作品の視覚的な斬新さは多くの注目を集め、制作段階でユイグがこだわったのもこの点だ。しかし、作品のコンセプトにおいて、この技術は単なる新たな視覚表現法ではない。むしろ、心的現象を物質世界の一部として位置づける装置として機能している。つまり、心と物質を等価なものとして並置するためのガジェットなのだ。

結果として、UUmweltは単なる技術的革新や視覚的斬新さを超えた作品となっている。それは我々の世界認識の根本的な再考を促し、人間と非人間の境界を曖昧にする。全ての存在が互いに影響を与え合う複雑な生態系の一部として人間を位置づける、より包括的な世界観を提示しているのだ。

Anlee

さて、今回のPunta della Dogana展示「Liminal」では、ユイグの過去の著名な作品のモチーフである「Anlee」を素材として用いた。Anleeは、現代アートの世界で重要な意味を持つキャラクターだ。

Anlee は、ピエール・ユイグとフィリップ・パレーノという二人のアーティストによって1999年に始められたプロジェクト「No Ghost Just a Shell」の中心的存在だ。このプロジェクト名自体が、UUmweltにも通じる世界観を暗示しているのがわかるだろう。

Anleeは元々、日本のアニメーション制作会社が商業用に設計したキャラクターだったが、実際には使用されることなく忘れ去られていた存在だった。ユイグとパレーノのはこの無名のキャラクターの権利を購入し、アートプロジェクトの中心に据えることで、彼女に新たな文化的意味を与えた。彼らは、Anleeの使用権を他のアーティストにも開放し、多くの創作者がこのキャラクターを様々な形で作品に取り入れた。このプロジェクトは、アートの世界におけるキャラクターの権利とアイデンティティ、商業化と創造性の関係について問いを投げかけた。

Liminal展では、Anleeをモチーフに、脳内イメージの可視化を行った。実際の展示は、広大な空間に大型スクリーンを設置し、脳活動から生成されたAnleeのイメージを映し出している。これらの映像は絶えず変化し、抽象的な形態と具体的な形態を行き来する。展示室内には観客の動きに反応する光や音響効果も組み込まれ、来場者自身も作品の一部となっていく。さらに、Anleeを立体化したオブジェがスクリーンの前に置かれ、Anleeが外在化された自身の心のイメージを見ているかのような印象を与える。

技術を提供した我々としては、一目でAnleeと分かる画像の出力を期待したが、現状の技術では限界があった。訓練データにAnleeの画像やそれを見たときの脳活動データを使えば、明確なAnlee像の生成は容易にできる。しかし、それは本質的な意味でのイメージ解読ではないため、我々は慎重に避け(Shirakawa et al., 2024)、Anleeについての事前知識なしにAIモデルが脳活動を解読した出力を用いた。 結果として生成されたぼんやりとした画像は、我々の技術の未熟さと心や脳の状態の曖昧さの両方を反映したものと言えるだろう。

予備知識なしでこの作品の意味を理解するのは難しいかもしれない。しかし、Anleeというキャラクターを通じて、ユイグは人間の認識と外部世界の関係性、そしてアートと商業の境界について再び問いかけている。この曖昧で流動的な展示は、観る者に日常では得られない感覚をもたらす。

Untitled (Human Mask)

このLiminal展は、ユイグの最新作を披露すると同時に、彼の芸術的軌跡を辿る回顧的な側面も持ち合わせている。新旧の作品が共存することで、ユイグの創作活動における一貫したテーマとその進化を観察することができる。

「Untitled (Human Mask)」は、福島の原発事故後の状況をモチーフにした映像作品だ。映像は廃墟となった街並みから始まり、打ち捨てられた居酒屋の中に入る。そこで唯一の生存者として、少女の仮面と衣装を着た猿が映し出される。この猿は自動人形のように一人で仕事を続け、反復的な役割に閉じ込められたようだ。

しかし、内覧会のパーティーで作品制作に関わった人から興味深い事実を聞いた。実際の撮影場所は福島ではなく、栃木県にある有名な居酒屋だという。この店は猿が「接客」してくれることで知られている。さらに驚くべきことに、撮影場所は通常の営業時と同じで、特に廃墟風に内装を変えたわけではないそうだ。猿がマスクを自然にしているのも、普段からマスクをして接客することがあるからだという。

この事実は、作品の解釈に新たな深みと複雑さを加える。「Untitled (Human Mask)」と実際の居酒屋の「かわいいお猿さん」の対比は、現実と表象の間の緊張関係を鮮明に浮かび上がらせる。人間にとって日常の居酒屋は親しみやすく心温まる風景かもしれないが、猿の視点からは、常に「Untitled (Human Mask)」のような疎外された世界で接客しているのかもしれない。

どちらの世界の見え方がより真実に近いのか、あるいは両者は等価なのか。これは単に環世界(Umwelt)の違いとして片付けられそうだが、ユイグの作品の真価は、本来我々が直接経験できないはずの「人間の認識を介さない世界の見え方」をアートという形式を通じて垣間見せてくれる点にある。

「誰もいない森で木が倒れたら、音はするか?」というよく知られた哲学的問いがある。ユイグの作品は、比喩的に言えば、誰もいない森で倒れる木の音を我々に聞かせてくれているかのようだ。つまり、人間の知覚や認識を超えた事象の存在を、アートを通じて感じさせてくれるのである。

これは、人間中心主義を超えた実在の探求という意味で、思弁的実在論と共鳴する。また、彼の作品は、アートが単なる人間の観察対象ではなく、独自の存在性と影響力を持つことを示唆している(Harman, 2019)。ユイグは、芸術作品を通じて、人間の認識の枠組みを超えた世界の在り方を探求し、我々の世界理解に新たな視座を提供しているのだ。

ポストヒューマンの哲学(Posthumanism)は、災害や危機的状況が我々の日常的認識を揺るがし、その結果として世界の実在性がより鮮明に意識されるという洞察を提示する(篠原, 2020)。「Untitled (Human Mask)」は、この哲学的視座と呼応しつつ、さらに踏み込んだ問いを投げかけているように思える。作品は、災害後の風景を模した空間に人間の仮面をつけた猿を配置することで、日常と非日常、人間と非人間の境界を意図的に曖昧にする。これにより、我々が無意識のうちに依拠している認識の枠組みそのものに根本的な疑問を投げかけ、「正常」と「異常」、「人間的」と「非人間的」といった二項対立的な世界理解の限界を露呈させる。ユイグの作品は、我々の認識の基盤を揺さぶり、新たな存在論的視座の可能性を示唆している。

現代アートと再現性の危機

私は、脳研究を本業としながら、二つの一見無関係な活動に携わっている。一つは、本記事で紹介したようなアートとの協働であり、もう一つは、科学研究の信頼性の問題を提起しオープンサイエンスを推進する活動だ。これら二つの活動は、表面的には全く異なる領域に属するように見える。しかし、ポストヒューマンの哲学や思弁的実在論を介して、私の中では深くリンクしている。

アートは再現性によって評価されるものではないが、ユイグの作品が示すように、人間の認識を超えた世界の在り方を探求し、我々の世界理解に新たな視座を提供する。一方、再現性の危機やオープンサイエンスの議論は、一見すると単なる研究手続きに関する形式主義的議論のように思われるかもしれない。しかし、これらもまた、人間中心主義を超えた実在の探求という点で、現代アートと共通の基盤を持っていると考えている。

人間の尺度で世界を理解した気になろうとする態度が、pハッキングやHARKing(Hypothesizing After the Results are Known)、データの二度漬け(double dipping)といった疑わしい研究慣行(Questionable Research Practices, QRPs)を許容し、科学研究の再現性の危機につながったのではないだろうか。これは、ユイグの作品が問いかける「人間の認識を通さない世界の見え方」という課題と、本質的に通じるものがある。

データだけから、どこまでがシグナルでどこからがノイズかを判断すること(signal-noise partitioning)は困難だ。データ収集プロトコルや解析法を事前に宣言・記録する事前登録(preregistration)や事前審査付き事前登録(registered reports)といった実践は、研究者の思い込みや期待から独立して研究を進める試みだ。これは、研究者の「人間中心主義」を脱却し、世界をありのままに捉えようとする点で、ポストヒューマンな営みだと言える。

研究者の期待やモデル、解釈しやすいパターンを超えたところにこそ、世界の本来の姿が見えてくるのではないだろうか。そしてそのとき、ユイグのようなアートが新たなインスピレーションを与えてくれる。人間の認識の枠組みを超えた世界の在り方の探索を促し、我々の世界理解に新たな視座を提供してくれるのだ。

参考文献

  • Harman, G. Art and Objects. (Polity, 2019).

  • 篠原雅武. 「人間以後」の哲学 : 人新世を生きる. (講談社, 2020).