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Story teller

 あなたはもう覚えていない。私とあなたが過ごした日々のことを、何も。赤信号の精神攻撃に対して普段通り動けないまま、その少しの間ハンドルから手を離す。そこに嫌悪感も諦観もない。ただ、待つだけ。そうだ、待つことでまた今まで通りの日常を進むことができるのなら、どれだけ良かったか。あなたと初めて会った補講の授業も、行きたかったお店が臨時休業だった初デートも、全部、全部彼は忘れている。それでも彼がなんとか生きていることは、私にとって幸か不幸か。

 赤信号はまだ変わらない。もし私がそういうのを全く気にせずに渡れるような人だったら。昨夜、私の耳を痛めつけた暴走族を羨む。ただ待っているだけが、どんどんどんどん嫌になって仕方がない。あぁ、今日病院に行ったら何を話そうか。



 消毒の漂った空間に足を踏み入れる。受付の女性は、週1の頻度で訪れる私のことを、どうやらもうはっきりと覚えているらしい。「彼氏さんですね。どうぞそのままお向かいになってください」、いつものように聞く言葉を飲み込むや否や、毎週通る道を進んだ。そのまま906号室の扉をくぐる。

「みつくん、おはよう。体調は大丈夫?」

「うん。問題はないよ。ごめんね、今年もここで」

「大丈夫だよ。今日も看護師さんとかはいないよね。……ふふっ、楽しい結婚記念日にしようね」