見出し画像

僕はフェニックス               シリーズ1    キャリアカンリョウになる

プロローグ

世の中はコロナウイルスの問題で大騒ぎになっている。簡単に終息する気配はなく、近頃は「with コロナ」時代の幕開けと言われるようになってきた。ウイルスで一番馴染み深いものは毎冬我々の頭を悩ますインフルエンザであり、毎年インフルエンザウイルスは姿を変え、もしくは変えないまま私たちに襲い掛かる。インフルエンザワクチンの接種が声高に毎年叫ばれるが、私はインフルエンザワクチンを打ったことがない。ワクチンに関しては、副作用問題が摂取による効果以上に問題となることがあり、私の危惧するところでもある。ワクチンの効用で我々は助けられもするが、副作用で苦しんでいる方もおられることを忘れてはいけないだろう。
 長年来の友人から2年前に『ウイルスの意味論』という本をプレゼントされ、目が点になった。私が数代前から受け継いできたと考えられる「B型肝炎ウイルス」は恐竜が生きていた8200万年前にもう既に地球上に存在していたらしいというのだ。ホモサピエンスが誕生するはるか前のことである。現在全世界で3億人近くの人がこのB型肝炎ウイルスを持っていると推定されているが、その末端を私は担っているのだ。
 そして最近の研究は、ウイルスが30億年もの時を生物とともに生きてきたこと、生物ゲノムには驚くほどたくさんのウイルス(その断片)が混入しており、それらが生物進化に重大な貢献をして来たらしいということが明らかになりつつある。ヒトゲノムの約半分はウイルスとウイルスもどきの遺伝子配列が占めているという。ウイルスの遺伝子を排除してしまえば、我々を支えている遺伝子そのものが成り立たなくなり、崩壊してしまう。
 我々はウイルスに支えられていると言っても過言ではない。我々の身体の中には腸内細菌や皮膚常在菌などの多くの細菌、またその細菌に寄生する膨大な数のウイルスが存在し、我々の健康を支えているとも考えられるようになってきた。人類を脅かす感染症を伝播する存在として、悪者扱いをされがちなウイルスだが、有益なウイルスも存在するという不思議。
 いろんな時代を大いに揺るがせたウイルスは、それまでの人間の生き方、生活の仕方を問い直させ、新しい生活の在り方を模索させるための試練を人間に与え、その試練が乗り越えられると、遺伝子の中にその痕跡を残し我々の前から姿をくらます。ウイルスは生物に試練を与え、結果的にはより生き延びられるよう生物を進化させているとも考えられる。さて、今回の新型インフルエンザのコロナウイルスは我々に何をもたらすために我々の前に姿を現したのだろうか。そんなことを考えながら、日々を過ごしている。
 
 私自身は生まれ落ちた時からB型肝炎ウイルスとともにあり、未だに一緒に生活をしている。ある時期からは私に大きな脅威をもたらす存在と化し、死の淵まで私を追いやった。もうちょっとのところで「三途の川」を渡り、彼岸(あの世)に行きそうになったのだが、此岸(この世)へ引き戻された。闘病生活という意味では30数年をジェットコースターのように浮き沈みを繰り返しながらの生活である。
 死んだ方が楽だなと感じたことは何度もあるが、ひょっとしたきっかけで2008年の夏から高尾山に登り始めた。精神的にかなり落ち込んでいた頃でもあり、ヒーリングスポットという巷の声に惹かれ、最後の望みを託したのだ。週1~2回の高尾山トレッキングが楽しく感じられるようになるとともに身体が軽くなった。こんな感覚は人生で初めてだなぁと嬉しくもなった。明るく楽しい生活を送れるようになるとはそれまで想像もつかなかった。65歳から硬式テニスを始めると一層元気が増していき、楽しい日々を送らせてもらっている。そんな私の姿は肝炎仲間だけでなく、周りの人々をびっくりさせている。いや、一番驚いているのは私自身である。
 「生まれて来ない方が良かった」とある時期まではずっと考え続けて生きてきた。何事にも本気になれず、半分白けたままでどこか斜に構えた生き方は、そうしないと生き続けられないサガのようなものであり、生きづらさを感じ続けた人生だった。それが故に哲学や文学、映画、演劇に走り、最終的には心理学に辿り着き、精神病の世界に惹かれて仕事を続けてきた。B型肝炎ウイルスとの激闘の中で何かが変わり、世界が変わった。最終的にはウイルスの存在が私の人生を変えたのだ。そんな日々を書き綴った闘病記であり、この闘病記が誰かのお役に立つことがあれば最高の幸せである。

献血からのプレゼント
その時は突然やって来た。その時とは何か?それがこれから始まる物語である。私の人生に大きな影を落とすことになった悲劇である。それがなかったらもっと違った人生になっていたと思うが、人生は後戻りができないから、しかとしたことは分からない。どのみち同じような人生を辿っていたような気もする。病気にならなければもっと良い人生が歩めたかもしれないという恨み言もなくはないのだが、普通の人が体験できないような不思議なことを体験したり、結果としてはお陰様でと思える良い体験になったこともあり、悲劇では終わらなかった事に感謝したい。

事は一九八一年に遡る。一〇月六日のこと、勤めていた精神病院で社会療法というチーム医療を展開していたのだが、仲間の精神科医から献血の協力を求められた。突然のことで何事かとびっくりしたが、父親が胃を患っており、先日大量に吐血したので、大量の輸血を受けたと言う。日赤から同じ量の血液の献血を求められているので、協力してもらえないかということだった。血液型は何でも良く、輸血した血液量と同じだけの量が確保できれば良いということで、チームの仲間全員が協力することにした。社会療法室には一〇名足らずのパラメディカルスタッフがいた。
当時大和田町(八王子市)に日赤の血液センターがあった。地図を頼りに、迷いながら行ったのを昨日のことのように覚えている。確か現在の『とうふ屋うかい八王子店』がある辺りだったように思う。それまで一度も献血をしたことがなく、とても良いことをした気分でいたのだが、一週間くらい後に、「精密検査の必要があり、都立駒込病院の感染症センターを受診して下さい」という葉書が届いた。献血した私の血液は結果的には役に立たなかったのである。「感染症センターってどういうこと?」「何かに感染したということ?」「何も悪いことはしていないのに!」、と何の為の精密検査かも分からず、不気味な感じに襲われたものである。青天の霹靂とはまさにこういうことを言うのだろう。このことが後々の私の人生に大きな影と光を投げかけることになろうとは当時は想像もできなかった。
 
都立駒込病院には感染症センターがあり、結構高い水準を保った病院であることは知っていた。海外旅行から戻ってきた日本人や海外からの訪問客の中に感染症の疑いがある人がいると、その当時成田空港から直行で都立駒込病院に即刻入院させられていたのをよく耳にしていたからだ。他人への感染を防ぐための隔離という強制措置であり、感染症予防法に基づいて行われている。対象となる疾患も幾種かに分類され、明記されている。
 一一月六、二〇日の二回駒込病院まで出かけて行ったが、受診して分かったことはB型肝炎ウイルスを持っているということ、ウイルスキャリアではあるが、発症はしていないということだった。医師からの詳しい説明もなく、小冊子を渡され、よく読んでおくようにと言われた。わざわざ都心まで呼び出しておいてそれはないだろうという医療のおごりのようなものを感じた。しかし、同時にそれ程悪い状況ではなさそうだとの推察もできた。「次回はご家族も連れてきて下さい」と言われた日にはたまったものではなかっただろう。
 
渡されたのはA5版六ページくらいの冊子で、B型肝炎ウイルスのキャリアについての説明が簡単に書かれていた。キャリアというのはB型ウイルスを持っているが、発症はしていない状態であり、発症するのはわずか一〇分の一であること。だから、余り心配しなくても良いこと。ただ、一年に一度は医療機関を受診し、検査してチェックし続けるようにと注意書きがあった。確か、「お酒を控えるように」などの注意書きはなかったように記憶している。分厚い紙で、イラストも子供が喜びそうなものが描かれており、絵本のような感じだった。当時の日本の肝炎研究の第一人者という医師(駒込病院の部長で林Drと言ったか、確かな名前は忘れてしまった)が監修されていた。診察して下さったのもその医師である。
 キャリア官僚というのはきいたことがあるが、ウイルスキャリアというのは初めて聞く言葉だった。会社勤めも公務員の道も全く考えなかった訳ではないが、小さい時から放任されて育った環境の所為もあるのか、どうもおおきな組織の中にいるのは向かないなと考え、国家公務員の道を断ったことがある。そうした私に天は「キャリア肝良」を与えてくれたのだろうか。ウイルスを持っていても、肝臓は良好で発症せず、病気には至らないと言う

若い人たちは全く知らないかもしれないが、てんぷくトリオの三波伸介さんの「びっくりしたなー、もう」というギャグがその昔大流行したことがある。私の好きなギャグのひとつだった。それを心の中で繰り返し口ずさみながら、ほっとした気持ちで八王子まで戻ってきたのを昨日のように覚えている。多分一割の確率の中に自分が入る筈はないだろうと考えたのだ。

♯お酒が飲める、お酒が飲める、お酒が飲めるぞー♭
よくキャンプファイアーなどで唄われる歌の替え歌を心の中でリフレーンさせてもいた。

酒の強さは父系の遺伝
ウイルスを持っていても発症するのは一〇人に一人、つまり一割しか発症しないという数字に幾分高を括っていたところがある。まさかという風に考えるか、ひょっとしたらという風に考えるかは人それぞれである。父親は酒が強く、軽く一升酒を飲む人だったので、その血を引いて私も若い頃は大量の酒を飲んでいた。酔いつぶれるということがなく、いつも仲間の介抱ばかりしていた。この年齢に至るまで前後不覚になった事は一度しかない。と言っても、やはり歳には勝てず、弱くなった。ただ、それほどの量を飲まなくても酔いを感じられるようになったのはおとくでもあり、 嬉しいことでもある。若い頃より無類の酒飲みというほどの酒好きではなく、飲めばそこそこ強いというだけであった。安い酒をがぶ飲みするということはしたことがなく、美味しい酒をじっくり飲むタイプである。日本酒が一番好きだが、酒の種類は問わず、すべてストレートで飲むという飲み方を未だに続けている。晩酌という習慣を持ち合わせたこともない。
後に肝硬変になり、一時と言っても一〇数年間は断続的に禁酒生活をしていたが、子供が大学生になった頃から時々の飲酒を再開させている。家では大きめのワイングラスに一杯、友達と飲む時は日本酒三合位を目安にしている。数年前、三〇年振りくらいにウイスキーを買った。昔は高くて手が出なかった「オールドパー」が安く売られていたから、何の躊躇もなく手が出てしまった。
お金がない若い頃は、主に「ブラックニッカ」をよく飲んでいた。安い割には美味しいウヰスキーだった。もっとお金がないと、ジンのストレートにレモンの生を二~三滴落として飲んだ。時に「角瓶」か「オールド」などをご馳走になることがあると、天にも昇るような気持ちがした。初めて「シーバスリーガル一二年」を飲ませてもらった時の感動は未だに忘れられない。
「オールドパー」は飲む機会もなく、高根の花のままだったのだ。六〇歳代後半になってはじめて口にする「オールドパー」。角栄さんが愛していたっけなと思いながら、口に含むと、芳醇な香りが口いっぱいに広がり、少し甘さを含んだ、まろやかでコクのある液体が舌の上を転がった。暫く転がせてじっくり味わった。なんと美味しかったことか。久し振りに飲んだウイスキーの味が昔とは全く違って感じられた。
働き始めてから一時期ブランデーにはまり、いろんな銘柄とランクのものを飲みあさった事がある。XO、VSOPとかのランクがあり、ナポレオンが最高級なのだ。いろんなナポレオンを飲み漁った。そして分かったことは、全てのナポレオンが美味しい訳ではなく、それ程美味しく感じられないものもあるという事だ。味の好みの問題もあるが、ランクよりは銘柄の方が信用できるというのが最終的な結論だった。よく名前が知られていない銘柄のナポレオンよりレミーマルタンのVSOPの方が格段に美味い。ブランデーはもう四〇年近く口にしていない。

いくらお酒を飲んでも、健康診断などで肝機能値(GOT、GPT、γ-GTP)に異常が出たことは一九八二年末までは一度もなかった。しかし、小さい頃より病気がちでいろんな臓器を病んでいたので、駒込病院からの帰り道に悪い予感が頭の片隅を微かによぎってはいた。「肝臓の病気もする事になるのかな?」「親戚に肝臓病で亡くなった人が何人かいるな。」とか。だから、年に一度の健康診断だけでなく、知り合いの精神科医(丸野廣Dr)のお手伝いに行っていた診療所(南新宿診療室)で数か月毎に血液検査をしてもらうことにした。順調に正常値が続き、彼ともよくお酒を飲んだ。
 駒込病院受診から一年を過ぎた一九八二年の年末の診療が終わった時、丸野Drから渡された血液検査の結果を見て、顔から血が引いていくのが分かった。GOT、GPTが生まれて初めて異常値を示していたのだ。ほんのちょっと高めだけだったので、普段ならそんなに気にならないような数字だったが、状況が状況だけに、来るものが来たかと心臓にずしーんと堪えるものがあった。三九歳で病死した母と同じ運命を辿りそうな感覚を小さい頃より持っていたので、早死するのじゃないかと何処かで覚悟していたとは言え、ショックだった。
 早速勤めていた病院の医局の本棚から、内科学や肝臓病の本を借りて帰り、一通り肝臓についての勉強をした後、B型肝炎に関する資料を探し回ったが、なかなかこれと言う本に出会えなかった。どうも発症したB型肝炎の治療法はなさそうなのだ。心の中はてんやわんやで、年末・年始どころではなかった。ひと通り肝臓病、特にウイルス性肝炎についてはそれなりに理解した。その上で最新の研究情報がないかと焦って探していたら、年が明けて暫く経った頃、虎の門病院の熊田博光DrがB型肝炎の治療法を開発したと報じる新聞記事に巡り合った。地獄に仏、神様、観音様だ。

しかし、虎の門病院は国家公務員共済病院であり、当時は公務員以外には門戸を開いていなかった。何とか診てもらえないかと考えを巡らせ、私の臨床の師匠である石川義博Dr(東大卒)に紹介状を書いてもらった。虎の門が東大系の病院だと分かったからだ。そして病院へ電話をしたところ、簡単に受け付けてもらえた。ただ、問い合わせが殺到しているようだった。初診の予約は二ヶ月待ちとのことで、二月にやっと予約が取れた。わ~ぉ、ひと安心。これで治る!
 紹介状のお蔭だろうか、最初から熊田Drに診てもらえることになった。岐阜大学の医学部を卒業して、すぐに虎の門病院に就職した医師で、私より一歳上だという事は事前に分かっていた。写真で見たところ、童顔の優しい感じの人だったが、実際に会ってみても柔和で話しやすく、気さくな感じだった。駒込病院とは真逆だった。

キャリアカンリョウからの転落
 虎の門病院というのは政財界などの有名人がよく入院する病院で私にとっては縁遠い存在だと思っていたが、まさかその病院に三〇年以上も通うようになるとは当時考えてもいなかった。初診日は、一九八三年二月二一日、私が三四歳の時である。当時「わらべ」の「めだかの兄弟」という歌がよくテレビから流れており、街を歩いていてもよく聞こえてきた。スピルバーグの「E.T.」も大きな話題になっていた。
初診時の様子は昨日の出来事のように今でもはっきりと思い出すことができる。前年末の検査結果は何かの間違いであって、今回は正常値であったりしないかとどこかで期待しながら病院へ向かっていた。予約時間の一時間前に来ていろいろな手続きをすれば良いという事で、当日初めて虎の門病院を訪ねたのだが、想像していたより小さくて古い建物にびっくりした。黒川紀章設計の高層の新館が棟続きに建設中で、病院内は一層ごたごたしていた。丁度その頃、奥さんの若尾文子さんが虎の門病院に入院されていた。
特に消化器科は何種類かの新聞に熊田Drへの取材記事が載ったこともあり、患者が殺到していたようで、外来は人で溢れかえっていた。一見して重症の肝臓病の人だと分かる、どす黒く、くすんだ顔色をした中高年の人から二〇歳代の健康そうな人まで老若男女が入り乱れていた。当然消化器外来の椅子に収まりきらず、他科まではみ出していた。
予約時間を優に一時間も過ぎて、やっと名前が呼ばれて診察室に入ると、直ぐに検査室に行って血液を採ってきてくれとのこと。検査結果が出たら、また呼びますと言われた。一般的な検査項目については、院内の検査室でおよそ四五分位後に結果が出るようなシステムになっているのだった。それから一時間ほど経ってやっと診察となった。
検査の指示待ちの人もいれば、診察待ちの人もいるというのでは、人が溢れかえるのも無理はなかった。予約時間はあってなきもの。診察室の扉には「只今、一時間待ちになっています」というボードが掛けられていた。予約システムは一体どうなっているのだろうかと案じた。

受診の流れが不効率極まりないと感じたが、暫くその形が続いた。しばらく経ってこの不合理なシステムは変更され、診察後に次回診察時の血液検査の指示書が出されるようになった。診察日には予約時間の一時間前に直接検査室に行って、採血をしてもらい、診察を待つという形になり、採血前の一時間が短縮されることになった。
検査結果を見ながら熊田Drは「慢性肝炎だね」と言いながら、プリントを見せてくれた。なんとGOTが一二六(正常値一三~三〇)、GPTが一九三(正常値一〇~四二)もあった。明らかに無症候性キャリアではもうなくなった事を示していた。一〇分の一の確率に入ってしまったというやるせない気持ちは、やっぱりという捨て鉢な気持ちとないまぜになって狂おしく心をかき乱した。肝硬変、肝癌というシナリオが頭をよぎる。肺結核の為三九歳で亡くなった母の後を追うような運命だなと強く感じた。

熊田Drが新しく開発したステロイド離脱療法には、当たり前だが幾つかの適応条件があった。それを調べる為には精密検査が必要なので、入院の申込手続きをして帰るようにと言われた。会計の呼び出しを待っている間に、入院指示書を持って入院受付に向かった。初診でいきなり入院予約というのは予想もしていなかった。「入院待ちがかなりあり、恐らく二ヶ月位はお待ち戴くことになるでしょう。病院から電話を致しますので、直ぐに入院できるような態勢を取っておいて下さい。」と言われた。その後会計窓口に戻り、椅子に腰かけて待つこと小一時間。
いやはや大病院は大変だ。待ち時間を合計すると三時間ほどになった。診察時間は二〇分位だったか。往復に三時間ほど掛かるから、まさに一日仕事となった。待ちくたびれ、疲れ果て、挙句の果てに入院手続きという事態の進展の速さに面くらいながら、幾分あたふたしていたように思う。いや、幾分どころではなく、しっかり動揺していた。千鳥足のように与太りながら帰途に就いた。足元に夕陽がさしていた。

ウイルスとの戦い
 入院の手続きをした時に「肝臓での入院は都心の虎の門ではなく、川崎市の梶ヶ谷にある分院です。」と言われ、入院のしおりとともに分院の地図が描かれたパンフレットも渡された。写真が印刷されている訳でもなく、素朴な手書きのようなパンフレットだったが、全体の敷地に占める病棟の小ささが印象的だった。きっと庭が広いに違いない。都心の喧騒の中での入院生活よりは、郊外の方がのんびりしていて良いかなと感じた。一方、母が入退院を繰り返していた郊外の結核療養所の風景も脳裏をよぎり、「なんかなぁ~」という感情も湧いた。益々母親の後を追っている感じがした。
 
当時、私は単科の精神病院に勤めていて、忙しい毎日を送っていた。入院、外来ともに担当患者さんがおり、いくつもの治療活動を担っていた。だから、いつ入院になるか、またどれくらいの入院期間になるかも分からないというのは最悪だった。取り敢えず、新患は持たないことと、私の居ない間、他のスタッフに担当してもらうべく私の担当患者さんの割り振りを行い、日常業務はなるべく少なくするように努めた。私がいなくても業務がスムーズに廻って行くようにフェードアウトしていくことにしたのである。
 精神病院というのは未だに劣悪な環境に置かれていて、WHO(世界保健機構)から何度も改善勧告を日本は受けている。先進国の中では最悪の環境であり、二〇年も三〇年も遅れている。二〇一五年に八王子の労政会館で「むかしマットーの町があった」という映画の上映会があったが、イタリアで精神病院が全廃されて行く過程をドキュメンタリータッチで描いたものだ。「マットー」とは「気ちがい」という意味である。大熊一夫さんが第一回バザーリア賞を受賞した折にイタリアから持ち帰った映画で、字幕作製のカンパに私も協力している。エンドロールに私の名前が載っている唯一の映画でもある。

日本での精神病院平均在院日数は二〇一五年時点でやっと三〇〇日余に下がって来たものの、日本以外の先進諸国はすべて一〇〇日以下であり、三〇日を下回る国も数か国ある。精神科特例と言ってスタッフの数が少なくても良い(医師は三分の一、看護師、薬剤師は二分の一)という法律を持つのも日本特有のことである。一九六〇年に当時日本医師会会長だった武見太郎Drが「精神病院は牧畜業者」と指弾した状況は、一部は改善されたものの、今もってあらかた変わっていない。これらについては別のところで詳しく述べたいと考えている。
そのような状況の中、精神医療改革運動に携わりながら、ある精神病院の改革に取り組んでいた六年目の途中に戦列を離れることになった。超忙しい毎日だったから、暫しの休養という意味では有り難いものであった。

入院予約窓口で告げられたように、ちょうど二ヵ月あまり経った一九八三年四月初旬の木曜日だったか金曜日だったか、「来週の月曜日に入院できますか?」という電話が突然入った。電話とはいつも突然鳴り、こちらの都合も訊かずいきなり私の心や行動を中断する。だから、電話がかかってくるのも、電話をかけるのもずっと苦手だ。
「心の準備というものがあるでしょ!」と心の中で思わずツッコミを入れていた。「自由に生活できるのは、あと三、四日しかないのかぁ・・」とも感じた。勤務体制や入院時に持って行く物などの準備は一応整えてはいたが、気持ちまでは整えていなかった。精神科においては、強制入院などしばしば患者さんの意思を無視した形で突然の入院が強行される。うろたえる彼ら、彼女らの気持ちの一端を味わった気がした。
 
四月一九日、初めて虎の門病院分院に入院した。病院は東急田園都市線の梶ヶ谷駅から歩いて一五分位の所にあった。五階建てのL型に建てられた病棟は、古さばかり目立ち何の飾り気もなかった。病棟面積の三~四倍はありそうな広い敷地が周りに広がっていた。まさに療養所という雰囲気そのものだった。一画に庭が整備され、いろんな樹木が植えられているようで、病棟の周りを巡る小道も作られていた。季節毎に長期入院者の心を慰めてくれる花々がきっと咲いてくれるはずだ。正面玄関前には大きな池があり、鯉たちが気持ち良さそうに泳いでいた。金魚もいた。咲き残っていた桜の花が、暖かい日差しとともに私を迎え入れてくれた。

はじめての長期入院
 虎の門病院は一九五八年に開設され、その後一九六六年に慢性疾患治療センターとして分院が開設された。だから本院には全ての診療科があったが、分院は肝臓、腎臓、糖尿、精神及びリハビリなど限られた診療しかしていなかった。コの字型の一辺が入院病棟になっており、各階の入り口にナースステーションがあり、中廊下の一番奥がデイルームとなっていた。ナースステーションに一番近い病室は重症患者のための個室と二人部屋があり、全体的には廊下の左側(西向き)に六人部屋(窓に向かって細長い)、右側(東向き)に四人部屋がずらっと並んでいた。それぞれの病室の出入口は左右向き合っており、病室の入り口にはベッド番号と名前が書かれたネームプレートが貼ってあった。
 肝臓病の人は概ね三、四階で、一部五階にいる人も居た。五階は精神疾患の人が多く、下の階では見かけない一〇人位の広い病室もあった。四人部屋は差額ベッド代が必要だったので、私は六人部屋を希望しておいた。しかし、私が入院した時にはあいにく六人部屋が空いておらず、一旦四人部屋に入り、数日して六人部屋に移動となった。六人部屋の方が庶民的な雰囲気があり、私には居心地が良かった。窓からの見晴らしが良く、時に綺麗な夕焼けが見え、立ったままボーッと見入った。綺麗な朝焼けや夕焼けを見ると嬉しくなるのだ。
 
今回の入院では私の肝炎の状態を確認し、可能であれば、直ぐ治療に入る旨伝えられていたので、勤めていた病院には一か月の休暇届を出しておいた。四月一九日の午後から一般的な検査を始め、二二日に腹腔鏡検査と同時に肝生検を行った。その結果、既に肝臓は肝硬変の一歩手前まで進行していることが分かり、時間的猶予がないという事で、ベストタイミングではないということだったが、急遽二五日からステロイド離脱療法を始めることになった。
 その為、早ければ二~三週間で退院できるものと考えていたのに、三ヶ月に及ぶ入院になってしまった。有給休暇は直ぐになくなり、途中から病気休暇になり、その病気休暇の期限もオーバーし、疾病療養給付金を貰うようになるとは全く想定外だった。病気休暇からはそれまで貰っていた給与の基本給の六割しか支給されない上、社会保険料や雇用保険料は以前の額のまま差し引かれ、手当てが全く付かなくなるので、手元に残るのは確か入院前の半分以下くらいになり、非常に心細く感じた。
 
その頃私は煙草を一日一箱弱喫っていた。入院病棟の一階の建物の外にプレハブ小屋のような煙草部屋が設けられていた記憶があるが、定かではない。初めて煙草を喫いに行ったところ、三~四人の人がパジャマ姿で喫っている最中だった。精神科に入院している患者さんのようだった。煙がもうもうと立ち込め、気分転換になるどころか、かえって気持ち悪くなった。だから、そこ以降は喫いたくなると玄関前の池の畔へ向かい、ベンチに座って鯉や金魚を見ながらタバコを燻らせた。
煙草とライターをポケットに忍ばせ階段を降りて行くと、池のほとりに肝臓の仲間たちが集まって、煙草を喫いながら談笑していることもあった。回を重ねて親しくなってくると、実に北海道から九州・沖縄まで、遠い所から虎の門病院に助けを求めて患者さんが集まって来ていることが分かった。二〇年以上も通っているというベテランもいた。そういった先輩達からいろいろ教わることも多かった。一度だけその輪に熊田Drが加わり、一緒に煙草を喫いながら話をしたことがある。奥さんが車で病院玄関前まで迎えに来て、彼は去って行った。土曜日だったが、午後どこかで講演があると言っていた。土・日曜日には講演が入ることが多かったようだ。
さすがに日曜日に顔を見かけることは少なかったが、土曜日には早朝から顔を見かけることがしばしばあった。数日姿を見ないということは殆どなく、一~二日顔を見ていないなと思って他の医師や看護師に訊いてみると学会で出張だと言われた。熊田Drだけでなく、消化器内科の医師たちはみなとても働き者で、研究熱心でもあった。医師というのは大変な仕事だなと初めて実感したことでもあった。とても私には務まらないとも思った。

ウイルスと免疫
我々の身体には病原体などの外敵や癌細胞などの異常な細胞(内敵)を認識して破壊してしまう免疫システムが備わっている。そのお蔭で日々何の煩いもなく我々は生活ができているのだ。ウイルスに対してもこの免疫力が働き、ウイルスを破壊してしまうのだが、時には自身の免疫力では太刀打ちできないウイルスも出現し、世界を揺るがす大騒動になることも繰り返されてきた。
そんなウイルスのひとつがB型肝炎ウイルス(以下HVB)である。一九八一年時点で世界中にこのウイルスの保有者が三億人位いると推定されており、アジア地域はB型肝炎の多発地帯でもある。日本でもそのまま放置したら大変なことになると、一九七八年に厚生省がB型肝炎研究班を発足させた。
大人になってからこのHVBに感染しても殆どの場合は免疫力で打ち勝つことができ、HVBを排除してしまうのだが、免疫体制が充分整う前(三歳までの乳幼児期)に感染した場合にはHVBを識別できず、排除できないままHVBと共存する状態が続いてしまう。この共存状態をキャリア(正確に言うと無症候性キャリア)と言っている。
しかし、思春期を過ぎ、自己の免疫力が発達してくると、HVBを異物と認識できるようになり、HVBを体内から排除しようと免疫システムがHVBを攻撃し始めるようになる。この時ウイルスに感染した肝細胞も一緒に破壊してしまうことで肝炎が起こる。ただ、その七〇~八〇%は肝炎になっていることさえ気付かれないまま戦いは終息し、HVBは消え、抗体ができる。その中のごく一部の人が、HVBが消えないまま慢性肝炎になってしまうのである。
残りの二〇~三〇%位の人は急性肝炎となり、概ね入院、安静加療が必要な事態となる。なかに劇症肝炎になる人がごく稀にある。急性肝炎になった人も殆どは、補助的な医療の力を借りながら自己免疫の力でHVBに打ち勝ち、抗体ができるのだが、そのうち一〇%位の人はHVBとの戦いが終わらず慢性肝炎となってしまい、時間の経過と共に肝硬変へと移行して行く。駒込病院で言われた一〇人に一人とはこの事であった。

この一〇%の慢性B型肝炎については長い間治らないものとされ、治療法と言えば、安静と食事療法が主体だった。HVBを絶滅・排除させることは不可能だと考えられ、肝障害によって生じる炎症を抑え、肝臓組織の悪化を防ぐための試みがいろいろされてきた。強い抗炎症作用を持つステロイド剤が肝臓病に臨床的に応用されるようになったのは一九五〇年代からで、この長期間歇療法で救われた人はたくさんいるのだが、どこまで行っても対症療法に留まっていた。HVBの正体も分からず、撃退する薬も見つけられずにいた。
一九六五年から一九七〇年にかけて米・英・日の五人の研究者によりHVBの正体がやっと突き止められ、その後さまざまな治療法が開発されることになったが、どれもが決め手に欠き、ウイルスが消え、抗体ができるまでに至る確率が二〇~四〇%位と低かった。

ステロイド離脱療法の開発
そこに登場したのが熊田Drである。一九七二年に岐阜大の医学部を卒業し直ぐに虎の門病院に就職しているが、所属したのは病理科であり、研究医に近い。一九七七年に消化器科に移動し臨床に携わるようになるや、その研究者魂が直ぐ発揮されることになる。長年ステロイドを使っていた患者さんから突然ウイルスが消え、その後抗体までできているのを発見し、最終的にステロイド剤離脱療法の開発につなげた。この治療法で初めて七〇~八〇%のB型慢性肝炎が治せるようになったのだ。
ステロイド離脱療法というのはそれまでとは真逆の発想のステロイドの使用法である。一時的に大量のステロイドを使った後、投与を止め、症状の増悪を積極的に起こさせ、その折に生体が本来持っている免疫力を強力に賦活させ、一気にウイルスを撃退してしまおうという治療法なのだ。日本の医学会では危険な治療法とみなされ、強い反発を買ってしまったが、欧米で注目を浴び、日本より海外で彼の名前は有名になり、日本に逆輸入される形になった。その開発秘話が一九八三年四月二四日の朝日新聞に掲載され、丁度入院中だった私にその切り抜きのコピーを熊田Drが直接手渡してくれた。

ステロイドの光と影
 ステロイドというのは腎臓の上にある副腎で作られる副腎皮質ホルモンのひとつで、体の炎症、免疫力、アレルギーを抑える作用がある。今回はステロイド離脱療法の恩恵にあずかれた訳だが、ステロイド剤とは少なからず因縁があり、三〇年にわたって悩まされた負の体験もある。ステロイド剤の光と影に少し触れておきたい。
ステロイドの研究は、米国の生化学者ケンダルが牛の副腎皮質から八種類の化合物を抽出したことに始まる。その中のひとつがコルチゾンである。同じ頃スイスの有機化学者ライヒシュタインが副腎皮質から二九種類のホルモンを見つけ出し、それぞれの化学構造を解明した。当然その中にはコルチゾンも含まれており、一九四六年に化学合成の道が開かれた。
ライヒシュタインはコルチゾンの臨床応用をケンダルに頼み、大量の化学合成されたコルチゾンが届けられた。この頃、副腎抽出物がアジソン病*に効果があることが分かっており、ケンダルと同じメイヨー財団に所属する医師ヘンチはその事から関節リュウマチにコルチゾンが有効ではないかと考え、投与したところ、重症の患者さんが歩けるようになるという驚くような結果が出て、臨床応用への有効性が確認されたのだ。この三名は副腎皮質ホルモンの構造、生物学的活性を発見した功績で一九五〇年にノーベル生理医学賞を受賞している。

ステロイド剤は体の炎症、免疫力、アレルギーを抑える作用があり、さまざまな病気の治療に使用されるようになった。その劇的なまでの強い抗炎症作用はたくさんの人達を病気の苦痛から解放した。しかし、その副作用も大きく、長期にわたる使用は特に注意を要し、最小限度の短期利用が望まれる薬なのだ。
ムーンフェイス(満月のような丸い顔)、胃潰瘍、高血圧、糖尿病、骨粗鬆症、精神病増悪などの非常に多くの副作用とリバウンド(急に服用を中止すると、症状の急激な悪化を引き起こす)が報告されており、未だに解決されていない。
私が受けた治療は、この副作用としてのリバウンドを逆手に取って利用したもので、コロンブスの卵であった。この治療の入院中に親しくなった鎌倉婦人は自己免疫性肝炎を患っており、ステロイド長期間歇療法を受けていたが、熊田Drの微妙な匙加減が長期生存を可能にしていた。

話は少しそれるが、高校時代に友達から水泳パンツを借りた後から袋部分に痒みが生じ、思春期特有の恥ずかしさもあり、受診できないまま市販薬のフルコート軟膏を使い続けた。初めの頃は塗った途端痒みが嘘のように消える事に感動した。しかし、その持続効果が段々短くなり、そのうち日常生活に不便すら感じるようになった。
大学生になって「清水の舞台」から飛び降りるような気持でやっと皮膚科を受診したのだが、処方されたのはリンデロン軟膏だった。フルコートとほとんど同じくらいの強さのステロイド剤である。毎回渡されるものは同じもので、一向に良くなる気配もなかった。いつ頃かステロイド剤の怖さを本で知り、長期連用している事に恐れを感じた。
 八王子に住むようになって、三ヶ所の皮膚科に通院したが、どこも同じような経過を辿った。カルテには『脂漏性皮膚炎』と書かれていた。インキンやタムシの類でなかったことにほっとしたが、薬効が切れてくると、痒みの度合いが段々強くなり、その痒みの中にイガイガの棘が刺さるような、鈍い、変な痛みをも感じるようになった。
肝臓癌手術の為に入院していた一九八四年、痒みの強さが増していき、痒みのために夜もおちおち寝ていられない事態となって、皮膚科受診を申し出た。経緯を詳しく話したところ、想像していた通りステロイド剤の長期連用による副作用が出ていると教えてくれ、院内で調合した塗り薬を出して下さった。塗り始めて二日目には穏やかな痒みになり、眠りを妨げられることもなくなった。退院する頃には薬も必要がなくなり、長年の苦悩から解放された。三〇年来の悩みから解き放たれたのは感慨ひとしおであった。B型肝炎のお陰で皮膚科でも恩恵を受ける事ができた。ウイルスに感謝!

*アジソン病とは、副腎皮質が結核菌などにより広範囲に障害され、多くの副腎皮質ホルモンが欠如した病気を指し、食欲不振、悪心、嘔吐、皮膚や粘膜の乾燥、皮膚の色素沈着、無気力、精力減退、全身衰弱、低血圧などの多様な症状が現れる。
熊田Drの類まれな研究心と臨床愛
「ステロイド離脱療法」の開発秘話に話を戻すと、一九七七年七月から肝臓病の臨床に携わるようになった熊田Drは、当時部長であった吉場Drの指示で凍結保存されている患者の血液中のウイルスを調べていた。その中で奇妙な患者さんを発見した。治療法を全く変えていないのに、ある日突然ウイルスが激減しているのだ。しかし、肝臓の働きは悪くなっていた。だが、翌月肝機能は回復し、今度はなんと抗体ができていた。
 そこに何か隠されたヒントがあるのではないかと考え、その老婦人に最近変わったことをしなかったか根掘り葉掘り訊いたのである。当初しらを切っていたが、根負けしたご婦人は処方されていたステロイド剤をある時から勝手に飲まなくしたとついに白状した。薬を飲むと夜眠れなくなるのに耐えられなかったと言う。副作用のひとつである。
それを聞いた熊田Drの脳裡に突如閃光が走り、研究者魂に火が付いた。カルテ庫に入って、過去のデータをもう一度全てチェックしてみると、他に二人の同じような経過を辿って、抗体ができている人が見つかった。いずれの患者もステロイド剤が投与されていたのを勝手に止めていたことが、後ほど明らかになった。
この三人の肝臓病患者はステロイド剤服用を止めることで、肝臓の急激な悪化を来し、慢性肝炎だったものが急性肝炎状態になったのである。下手をすると、さらなる悪化を招き、劇症肝炎になり、死亡という憂き目に遭っていたかもしれない。恐らく、そういった症例も全国には何人かは存在し、劇症化して死亡した患者のカルテは闇の中に眠ったままになっているかもしれない。
これらの症例から、ステロイド剤を急に切ることでリバウンドが起こり、その結果本来生体が持っている免疫機能が強く賦活され、ついにはウイルスを撃退できたのではないかという仮説を熊田Drは立てた。そこが彼の非凡さであり、研究者的な真摯さでもある。その仮説を吉場Drに話し、他の患者に試してみたいと申し出たところ、賛同を得られ、早速取り組んでみた。すると、なんと全員成功したのである。慢性B型肝炎に対する治療法がなく、対症療法しかできなかったB型肝炎治療の世界に明るい灯をともしたのだ。
後ほど「ステロイド離脱療法」と名付けられ、一九七九年六月に学会で発表されたのだが、以前触れたように、それまでの医学常識に真っ向から反する、ある意味では危険性も伴う治療法であると考えられ、反発を買い、鋭い批判も浴びてしまった。

だが、海外で行った発表では大きな注目を浴び、各国で臨床現場に「ステロイド離脱療法」が取り入れられるようになって、熊田Drの名前は世界で一躍有名になった。一方日本でもこの発表の後、全国の病院で同じような経過を辿ったケースが見つかり、再確認の試験が幾つかの病院で行われることになった。その結果、安全性と驚異的な治癒率が確かめられ、徐々に受け入れられていった。
この流れを見てもらえば分かってもらえると思えるが、それ迄の肝臓治療の常識を覆すような治療仮説(ステロイド剤の真逆の使用法)だったから、熊田Drの存在は普通なら潰されていても何の不思議もなかったというのが当時の医学の世界である。山崎豊子の「白い巨塔」という本が大ヒットし、テレビドラマや映画にもなったので、ご覧になった方もおいでだろう。医学界というのがどれほど封建的な社会であったかがよく分かるはずだ。何より吉場Drの懐の深さが今回の発見の大きな礎となっていた。私は未だに吉場Drへの感謝の気持ちを忘れないでいる。
鋭い批判を浴びるだけの危険性も孕んでいる治療法であるゆえに、熊田Drは著書の中で、「ステロイド離脱療法」は訓練を受けた専門医の許で治療を受けるようにと繰り返し述べている。また、私が治療を受けた時も随所に慎重な姿勢が伺えたのもうなずけるところである。この治療が開発されていなければ、とっくの昔に私は亡くなっていただろうし、この闘病記が書かれることもなかったのである。

腹腔鏡検査と肝生検
 どんな治療や薬にも作用・副作用があり、禁忌例も存在する。勿論、ステロイド離脱療法にも幾つかの適応条件がある。それを確かめる為の検査として欠かせないのが腹腔鏡検査と肝生検である。
腹腔鏡検査とは、お腹を膨らませた後、一㎝位脇腹の少し上あたりを切開して腹腔鏡を挿入し、肝臓を直接目で観察し、写真撮影をする検査だ。医師は目で肝臓を見るだけで肝臓の病態像をつかめるようだ。その頃写真撮影には我々が普段使っている普通のカメラが使用されていたように思う。バッシャ、バッシャという音は、緊張を強いられる検査の非日常的な雰囲気を一気にゆるませてくれた。あのカメラ音が好きで写真を趣味にしている人がいるくらい気持ちの良いものだ。実は私もそのひとりだ。

健康な肝臓はアイススケートリンクの氷の表面のように滑らだ。私は馬のレバーの刺身が好きなのだが、表面はツルツル輝いており、滑らかでなかなか箸でつかめない時がある。美しさすら感じるくらいである。鳥のレバーも人間のレバーも健康であれば、同じように滑らかだから、目で見れば直ぐ分かる。問題は滑らかでない場合だ。
肝臓組織がダメージを受け続けると表面が凸凹になってくる。これは肝臓細胞の線維化が進み、再生結節ができることによって凸凹してくるのであり、肝硬変になっていることが疑われる。肝硬変になると離脱療法の対象から外される。リバウンドした時に肝臓がもちこたえられない可能性が高く、劇症化の恐れも高くなるからである。
肝生検とは、中空になった少し太い針を肝臓に直接突き刺し、組織の一部を取り出して組織的な病態を顕微鏡で調べる検査だ。写真撮影の後、「今から肝生検の針を刺します。」と声がかかり、僅かな鈍痛と小さな衝撃を感じた。針が刺された瞬間、ドスンというような音と腹部が揺れた体感が残り、えも言われぬ気色悪い感覚が身体を駆け巡った。全身が硬く硬直し、奥歯を強く噛みしめた。

肝硬変の一歩手前まで進んでいた
穿刺した肝細胞を顕微鏡で調べると、病態像がはっきりする。まだ慢性肝炎の段階に留まっているか、肝硬変にまで至っているかが分かるのである。慢性肝炎はさらに細かく、CPH、CAH二A、CAH二Bという三段階に分けられ、その重症度を表している。慢性肝炎であるうちは、肝臓組織は可塑的なのだが、肝硬変になると元の健康な組織に戻らないと考えられている。つまり、肝臓表面が凸凹にまでなると滑らかな美しい姿には戻れないということだ。そこには大きな溝があり、肝硬変になると決して良くなるということはなく、少しずつ組織は悪化して行き、その先は肝癌、肝不全になって亡くなるしかないという片道切符なのだ。肝硬変になってからの生存期間は最近少しずつ長くなって来ているようだが、昔は肝硬変になったら後一〇年というのがひとつの目安だった。

肝硬変が軟化することもあるらしい
肝硬変から慢性肝炎に戻ることを軟化と言うが、最近は軟化する人がたまにいらっしゃることが分かってきた。しかし、何故軟化する人がいるのかはまだよく分かっていない。当然のことながら、どうすれば肝硬変を軟化させることが可能なのかは、まだ見えぬ世界の話である。虎の門病院には軟化ケースの統計はないようだが、五〇〇〇人に一人くらいの割合か、もう少し高い確率で軟化する人がいるかなと鈴木文孝Drが仰っていた。一九九四年に最初の癌になってから既に二七年が過ぎた。しかし、まだ元気いっぱいだ。熊田Drも、家庭医である山田真Dr(八王子中央診療所)もびっくりしておられる。いや、一番びっくりしているのは私自身なのである。
後一〇年の命かなと思いながら、一〇年が過ぎ、二〇年が過ぎる頃には、この先の人生はお釣りの人生と考えるようになった。一万円かと思って出したら、二〇〇〇円もお釣りが来た。儲かったなぁという感覚。一般的に言うと、余生という言い方もあるが、少し感覚的に違う。ここまで来たら、いっそ軟化まで成し遂げようじゃないかと最近アスリート魂に火が付いた。

♯慢性肝炎と肝硬変の間には 
深くて暗い溝がある
たやすく渡れぬ河なれど
エンヤコラ今夜も 足駈ける♭   (『黒の舟唄』の替え歌)

ヘパティティス・ラプソディ
私の検査結果は、肝硬変の一歩手前のCAH二Bと分かった。最初の肝機能の異常値からわずか二ヶ月でなんと肝硬変の一歩手前!マジか?リニアモーターカーじゃあるまいし、速すぎる。あまりといえばあまりである。あまりにも速すぎる。「ちょっと待って下さい、うさぎさん。つるべ落としのような真似はやめてもらいたい。」と思わず心の中で呟いた。
劇症肝炎ではないのだから、それ程急激に肝臓組織が悪化する訳はなく、随分前に既に発症していたものが、ずっと検査をすり抜けてきたということなのだろう。これぞ神業!少なくとも病院に勤めるようになってからは、年一回の健康診断は欠かさず受けて来たし、大学在学中だって毎年健康診断があった。病院には八年勤務し、大学には大学院も含めると一〇年もいたというのに、全ての検査を潜り抜けている。まるでドルフィン泳法である。スピードが速く、姿を見せない事で敵も欺く。私の場合は、味方である自分自身を欺いていたのだ。

でも、そう言えば「だるさ」や「しんどさ」を感じることはしょっちゅうだった。病院時代に無断欠勤こそないものの、朝起きた後のあまりにものだるさに午前中休みを取ってもう一度布団の中に潜り込むというのも繰り返していた。午後から出勤したり、丸々一日休んだり、時々病欠を取った。サラリーマン生活ならとっくにラインから外され、窓際族のひとりになっていたことだろう。
大学、大学院時代も起きられないことが何度もあった。若い頃は夜更かししたり、深酒したりそれなりの理由が背景にあり、「だるさ」や「しんどさ」は悪行の報いとすら感じていたが、もっと重大なことがひそかに深く進行していたとは考えもしなかった。肝臓疾患の「あるある」である。

肝硬変になったら、ステロイド離脱療法はできないので、GOT、GPTの動きは理想的なタイミングではなかったが、急いで治療を開始するということになった。勤務先にはその旨連絡すれば問題はなかったが、他に困ったことがあった。丁度その頃、私にとっては初めての出版となる学術書の共同執筆をしていた。入院となると、その締め切りに間に合わなくなりそうだった。さらに長期入院になるなら、原稿を病院で書き上げ、推敲もしなければならないという状況へ追い込まれた。
当然ベッドサイドでやるつもりでいたが、床頭台に備わったパイプ椅子では長時間は無理そうだ。執筆の許可は主治医からもらえたが、自宅から椅子を持ち込むことについては自分で病棟婦長に掛け合ってみるよう言われた。四〇歳代後半に見えた婦長さんは快く許して下さった。これも今では絶対あり得ないことだろう。組織というものは何故こうもシステマチックになり、柔軟性を失っていくのだろうか?
ステロイド離脱療法というのは、プレドニゾロンという錠剤を飲むだけなので、もっぱら原稿に取り組んでいた。それとともに肝臓仲間との交流も深まった。同じ部屋には初期のソフトバンクでソフト開発に取り組んでいた大阪壮年、原発性の肝臓癌で前線を撤退された企業戦士のキリン紳士など多士済々がいた。
大阪壮年は孫正義さんの初期の仲間の一人だったようだが、病状が進んでからは、虎の門の受診の時に会社へ顔を出す以外は、殆どを大阪で家族と一緒の生活をされていたようだ。退院後も上京される度に何度か会い、一緒にソフトバンクまで行ったこともある。孫さん自身もB型慢性肝炎で一九八二年から大学病院で治療を受けていたが、肝機能値が上昇するのに治療が一向に進まない事に不安を覚え、一九八四年に虎の門病院を受診し、ステロイド離脱療法で見事にウイルスまで消滅させた人だった。私より後から入院して、ステロイド離脱療法がうまく行ったのである。
 
コピーライターとして関西で少し名を高めつつあったコピー君。彼の半年に及ぶ長い入院生活で親しくなった若年性糖尿病の患者たちもいた。私はこの時初めて若年性糖尿病という病気を知ったのだが、その凄絶な人生に唖然とさせられた。多くが二〇歳代で亡くなるのだと教わった。小さい頃の発病だから、食欲との戦いはとても大変そうだった。コピー君との流れで若年性糖尿病の患者さん二人と退院後も暫く連絡を取り合っていたが、いずれも二〇歳代で亡くなった。アンニュイな感触を漂わせた彼らの姿は当時の私には受け入れ難いところもあり、あまり間合いを詰めずにいた。訃報を聞いた時に、もう少しうまく付き合えなかったかなと悲しい気持ちになった。合掌!

天文学的な確率の出会い
ある日熊田Drとの立ち話で、ステロイド離脱療法の生みの親の女性が現在入院していると教えてくれた。大阪の人で旧制の大手前高等女学校(以下旧制高女)を卒業されたらしいと知り、ならば私の大先輩であることを告げると、病室を教えてくれた。その当時は、個人情報保護法というものがまだなく、そういうことが可能だった。病室の入り口には名札が掲げられていた。今では考えられない、おおらかな時代であった。
旧制高女は、戦後大阪府立大手前高校と名称を変えて存続し、一三〇年ほどの歴史を持つ。「金蘭会」という同窓会組織を持っており、東京支部の毎年の総会には旧制高女を卒業された九〇歳前後の先輩が来られることもある。見ず知らずの人ではあるが、旧制高女を出た大先輩と、大阪とは遠く離れた川崎、しかも虎の門病院分院に同じ時期に入院しているという出会いは、まさに天文学的な確率の偶然であり、奇跡とも言える。そして彼女がきっかけで開発されたステロイド離脱療法の恩恵に私があずかろうとしているこの不思議さ。

お礼がてら、ご挨拶も兼ねて病室を訪問させていただいたが、芳しい反応はなかった。しかし、その女性四人部屋に話好きの社交的なおばさまがいて、上記経緯を知って「不思議ですね。」と話し掛けて下さった。関西訛りなので、出身を訊くと香川とおっしゃった。実は私のルーツは両親とも徳島であり、母方の祖先は瀬戸内海で暴れまわっていた河野水軍であり、私はその末裔である事を告げた。そんな会話をしていてすっかり仲良くなり、その後二〇年近く家族ぐるみのお付き合いとなった。鎌倉に住んでおられて、この入院中からよく自宅へおじゃまさせてもらった。
彼女は吉場Drの奥さんの知り合いで、「熊田Drに診てもらうように。」と言われ、紹介されたそうである。ルポイド肝炎という自己免疫性疾患に罹っており、ステロイド剤を使って進行を遅らせるしかなく、その微妙な匙加減を熊田Drに委ねることになったのだった。彼女から吉場Drのお人柄を知るところとなり、熊田Dr、ひいては私自身の幸運を感じた。部長が吉場Drでなかったら、恐らく「ステロイド離脱療法」は日の目を見なかったのじゃないかと思われるからである。

水軍の末裔
河野水軍という話のついでにもう少しルーツについて書かせてもらうと、母親が結核で療養所への入退院を繰り返していたので、幼少時私は祖母に育てられ、東京の小岩(江戸川区)に住んでいた。そこには祖父母、母親の兄である叔父夫婦と子供達、母親の二人の弟と妹、そして煙草屋と新聞配達所を営んでいたので、住み込みの店員さんも数名いて、大所帯だった。だから、私一人を抱え込むくらいは全く問題なかったようだ。大変世話になった叔父夫婦だが、叔父が二〇一九年一〇月二八日、追うように叔母が一一月一〇日に相次いで亡くなった。

祖母の旧姓が河野であることは小さい頃より知っていたが、河野水軍の末裔であると知ったのは、親族の結婚式で隣り合わせた徳島に住む従兄弟(父系)が教えてくれたからである。先祖が祭られている大三島(瀬戸内海)の大山祇神社へ一九九七年の夏に連れて行ってもらった。国宝・重要文化財の指定をうけた日本の甲冑の約四割がこの神社に集まっており、境内の紫陽殿と国宝館で一般公開されている。その中に河野某と記されたたくさんの刀や甲冑などを見ることができたが、国宝でもない祖先のものは錆びついたまま、あるいはぼろぼろのまま展示されているものが多かった。

祖母は結婚して河野姓から真鍋姓に変わった。叔父・叔母の弔いが続いた日々、いつだったか祖父は真鍋水軍の末裔だったのだろうかと従兄弟(母系)に尋ねたところ、そんなことを聞かされたことがあると言っていた。一時評判になった小説「村上海賊の娘」を二~三年前に読んで、瀬戸内海には河野水軍、村上水軍、真鍋水軍が群雄割拠していたことを初めて知ったのだった。よくできたエンターテインメント小説だと思った。吉川英治文学新人賞と本屋大賞を受賞している。漫画にもなり、映画化もされた。私の母親は河野水軍と真鍋水軍の両方の血を受け継いでいたのかもしれない。
どうりで血の気が多い訳だ!誰がって?あなたですよ!これを読んでいるあなた!ちがった、わたしだった!

肝腎要
 「肝腎要(肝心要)」という言葉がある。肝臓や腎臓、心臓などの人体にとっての重要な臓器を語源としており、非常に大切・重要だという意味を持つ。最近この言葉を聞くことが少なくなった気がするのは私だけだろうか。人工臓器がいろいろ開発され、それぞれの臓器のかけがえのなさが薄れてきたということの現れなのか。人工心肺、人工透析などは当たり前の医療となった。しかし、肝臓は精巧な化学工場で、実際に同じ機能を持つ工場を人工的に作ろうとすると甲子園がいくつも入る広さが必要だし、いくら巧妙に工夫しても肝臓の替わりになるものを作るのは不可能だろうとも言われている。新しくそれぞれの臓器を作ってしまうというES細胞、iPS細胞による再生医療が大きなターニングポイントとなりそうだ。だが、肝腎(心)要という言葉はいつまでも残って欲しいものだ。

どうやって感染したのだろう
検査も一通り終わった頃だったか、「親戚筋に肝臓病で亡くなった人はいないか?」と熊田Drから尋ねられた。「一人はいることを知っている。」と伝えたところ、「母系の近親者にB型ウイルスを持っている人がいないか、保健所で検査してもらってくれないか?」と頼まれた。私自身の感染経路の解明をしようと意図したものだった。感染経路をはっきりさせるというのは、感染症の出発点である。しかし、分かったからと言って有効な対策というのは未だ殆どなかった。
母親は五人兄弟の二番目で、三人は東京にいた。小岩にいる長男の叔父と千葉の八千代台に住む一番下の叔母は直ぐに協力してくれ、叔父は陰性、叔母は陽性という事が判明した。亀戸に住む三番目の叔父と徳島に住む二番目の叔父は商売をしており、「忙しくて行けない。」とつれない返事だった。事情を説明し、「自分の身体を守ることになる。」とも説明したのだが、「元気でぴんぴんしている。」と取り合ってくれなかった。このことが後々の運命を分けることになるとは当時知る由もなかった。
 
昔は「肝臓をやられるともう駄目だね。」と陰で囁かれたものである。そして噂通り早死にして行った。私の発病当時だってそうで、私もそう噂されていたようだ。「あの頃、死臭が漂っていたよ。」と、私が元気を取り戻した時に言った人もいた。だが、良い意味で周囲の期待を裏切ることになった。それは何よりも熊田Drと巡り会えたことで、肝炎治療の最先端の恩恵にずうっ~とあずかることができたからである。厚生省(当時)の肝炎研究班に入っていた彼は科学研究費を使って様々な試みに挑戦しており、私もいくつかの治療法の治験者となっている。のちに書くことになるが、インターフェロンを使う治験では確かNo七八だったか、特異症例として報告されている。

母系の親族で肝臓病を患ったとはっきりしているのは、祖母(母系)の姉である。一九五〇年代半ばに肝臓癌で亡くなっている。五〇歳代前半だった。私の母親は結核で一九六四年に三九歳で亡くなっており、祖母は原発不明の癌(分かった時にはいろんな臓器が癌で侵されていた)で一九八〇年に七六歳で亡くなっている。二人ともB型ウイルスを持っていたかどうかは今となっては分からないのだが、その後の検査で母親の兄弟のうち、ウイルスを持っていないのは長兄の叔父だけで、最終的に残りの三人全員が持っていることが分かった。そのことから、どうも祖母がB型ウイルスを持っていたことは確かなようで、母子感染で私の母親に感染したものが、私にも感染したのではないかとかなりの確率で推測できた。
 つまり、推定でしかないが、祖母と曾祖母がともにB型ウイルスを持っていたことが疑われ、曾祖母からの母子感染で私や従妹たち(母系)に至るまでウイルスを抱え持つことになったようなのだ。曾祖母自身は九八歳まで生きた当時としてはとても長命の人だったところをみると、B型ウイルスのキャリアのまま生き永らえたという事だろう。B型ウイルスキャリアの系統樹的な発想で言えば、私は四代目である(もっと古い可能性が高いが)。血統書付き、ばりばりの江戸っ子ならぬ、ばりばりのB型肝炎ウイルサー(私の造語)なのである。

母系親族の悲劇
 八千代台(千葉県)に住む叔母は近くの保健所で陽性が確認された時点で直ぐ熊田Drの診察を受け、虎の門病院への通院を未だに続けている。叔母には二人の子供がいるが、両方ともB型ウイルスに感染していることが後ほど判明した。一度は熊田Drの診察を受けたものの、二人とも結婚して独立しており、仕事の都合や家庭の事情もあって、虎の門病院まで通院するには距離的にも少し無理があり、近医で経過観察を続けているようだ。叔母の家族は全員深刻な事態にまでは進展していないという。
亀戸の叔父はB型ウイルスを持っていることが分かった後、それなりに肝臓治療でも有名なある大きな病院へ通院していたようだ。何度か虎の門病院を受診するよう勧めたのだが、耳を貸さなかった。ある日「通っている病院から『肝臓癌になっており、余命三ケ月』と宣告された」と叔父が電話してきたので、直ぐ熊田Drに連絡を取り、緊急入院させてもらった。癌の発見が遅れたのは叔父が定期的な診察を怠っていたからなのかもしれない。
私の場合がそうであるように、慢性肝炎で定期的な通院を続けていると、癌はとても初期の段階で発見される。虎の門病院へ通い出して、もうすぐ三八年になるが、予約をキャンセルしたのは四~五回くらいしかない。仕事の関係で予定していた通院が無理と分かった時点ですぐに電話し、予約を取り直して一週間後位にはきちんと受診している。四回の癌は全てとても初期の段階で発見されており、癌治療に苦慮したことはない。

癌告知と高僧の自殺
緊急検査後、叔母と私が診察室に呼ばれ、「あと一ヶ月早ければ何とかなったが、もう手の打ちようがない。矢張り三ヶ月くらいしかもたないだろう」と告げられた。その叔父は四〇歳半ば頃だったろうか離婚してひとりで生活していたので、身の周りの整理もあるだろうと考え、「告知をして欲しい」と言うと、「止めた方が良い。高僧で癌の告知をされたあくる日に自殺した例がある」と熊田Drに言われた。どこかで聞いたような話である。どこでも使われる常套句なのだなとその時初めて知った。

その後、私が癌になった時には、何のてらいもなく、あっさりと癌宣告をした。あまりのあっさりさに目が点になった。かつては私も医療従事者であり、精神科だけでなく心療内科でも臨床に携わっていたとは言え、普通の人間である。いつかは癌になるという覚悟はできていたつもりだったが、いざ宣告されてみると、ただならぬものがあった。直前に撮影されたエコー画像を見ながら、「癌できてるね。竹内先生はよくこの小さな癌を見つけたね」と感心していたが、続いて画像を見ながら「帰りに入院の手続きをして帰って」と平然と言い放ったのは、親しさもあったかもしれないし、自信の現れかもしれない。しかし、初めての癌告知を受ける身にすれば、やはり大変なことであり、幾分かの動揺は隠せなかった。叔父は、熊田Drの宣告通り三ケ月はもたずに旅立った。

徳島の叔父については詳しいことを聞いていないが、ある日亡くなったと連絡があった。肝臓癌とのことだった。徳島の叔父はきちんと通院していたのだろうか?徳島の叔父と亀戸の叔父が相次いで亡くなったが、どちらも五〇歳代前半の早い冥界入りだった。私の言葉をきちんと受け止めてすぐ動いてさえいてくれれば、まだ生きていたかもしれないと考えることがある。
小岩(江戸川区)の叔父は二〇一九年の一一月に九三歳で亡くなったが、八千代台の叔母はまだ元気だ。叔父は身近な母系親族唯一のB型ウイルスの不保持者であったが、叔母はB型ウイルスを持っている。叔母は八〇歳。元気な旦那と一緒に教会活動に勤しみ、地域のお年寄りたちの集まり場所として自宅(元踊りの師匠だったので、その稽古場を転用)を開放して、皆さんに喜ばれているようだ。一〇年ほど前から健康麻雀を始めたらしい。
さすがに今年は取りやめたが、昨年の正月はいつも集まる小岩ではなく、八千代台に集まり楽しく親戚麻雀に興じた。もちろん叔母も卓を囲んだ。この私でさえ七二歳を迎えることができたのだ。最初の時点で強く検査を勧めていればとの後悔の棘が心に刺さったままである。

驚異的な医療技術開発
医療技術の革新スピードは最近とみに増している感じがする。肝臓に関しても同様で、B型肝炎に対して初めて開発され、熊田Drの名前を世界に知らしめた治療法であるステロイド離脱療法はもう過去のものとなり、虎の門病院ですらこの一五年以上行われていないそうである。
そのステロイド離脱療法のまだ試行錯誤の治験段階だったとは言え、理想的ではないにしろ適応条件を大幅に外してはいなかったはずにもかかわらず、私の場合は標準的パターンを踏襲せず、迷走を続けた。ステロイド剤を切ってからのリバウンドが大きく跳ね上がらず、峠を過ぎても順調に下って行かなかったのだ。富士山の山梨側の五合目から登って、静岡側の裾野まで下りてくるような登山が描く軌跡が理想的パターンなのだが、私の場合は下りが裾野まで一気に下がらず、途中から尾根続きのままだらだらと平坦な道が続く感じで、幾分高止まりのままだった。本当の山ならこういった尾根伝いには綺麗な花がいろいろ咲いていたりしてとても素敵なのだが、治療的には中途半端な困りものとなる。
肝機能値が正常値にまで下がりきらず、少し高めに留まっているということは、炎症状態が続いていることを意味し、つまりは肝細胞が破壊され続けているのであり、尚かつリバウンドで強力な免疫賦活を起こすという戦略が外れたことになる。順調に進んでも最低一ヶ月はかかる治療法であったが、二ヶ月を過ぎても依然肝機能値が高めで、ウイルス量もそれ程減って来なかった。正常値内に入れば退院できるのだが、不安定なままでは場合によって再び高くなることも考えられるという事で、ダラダラ入院期間が延びて行った。

治療的には毎日何をするという訳でもなく、週二回の血液検査だけが課されているだけののんべんだらりとした生活が続き、読書にも飽いてしまった。本来は日々の楽しみになる筈の食事も無味乾燥になり、食べ物を捨てられない私には拷問のような感じになった。と言うのも、今の分院の食事はレストランほどではなくとも、胸を張って美味しいと言えるものになったが、当時の食事は昔風に言えば「病院食」そのものであり、餌と言っても良い感じだった(栄養士さん、調理師の皆さん、ごめんなさい)。特に肝臓食はパサパサの鶏肉料理がこれでもか、これでもかというように毎食のように出され、閉口した。私にはまさに拷問そのもの。鶏肉は一番苦手な食べ物だったのである。

一〇〇日を超える頃には胸のうちに暴発しそうな、もやもやと鬱屈した気分が立ち込め始め、精神的なゆとりも失いつつあった。拘禁反応だろう、いろんな意味で我慢の限度を越えつつあったのかもしれない。
三ヶ月目に入ってからは毎週のように土、日は外泊させて貰うようにした。また、外出願を出しては梶ヶ谷駅界隈の喫茶店に行ったり、二子玉川まで足を延ばした。「ニコタマーゼ」のハシリである。いや、その頃はまだそんな呼び方はなかったか。そう言えば、ある日の外泊先が鎌倉婦人の家だったこともある。ご主人も腎臓病で同じ虎の門病院分院へ通院しておられたので、よく一緒にお喋りをした。ご夫婦とも麻雀が好きで、近所の麻雀仲間と各家の持ち回りでしばしば卓を囲んでいると仰っていた。そこへ外泊時に加えてもらったのである。

以前触れた私の初めての共同執筆の学術書の原稿は、手書きの原稿用紙に赤字で修正を加え、段落を変えなど、何度もしていると訳が分からなくなって来た。当時はパソコンもワープロもまだ身近にはなかったので、ベッドの上に引用文献を広げ、それらを照らし合わせながら作業をするにはスペースが狭くてうまく進まなかった。遅々として進まない作業にじれ、三ヶ月を過ぎる頃には投げ出してしまった。出版社の担当者に状況説明の電話をすると、他にも原稿の遅れている人が二人いるので無理をしなくて大丈夫ですという事だった。わーぉ!重しが取れた。

長期入院のストレス
原稿を書かなくて良いとなると、今度はやることがなくなり、いよいよ病棟生活にも嫌気がさしてきた。コピー君(同じB肝炎患者で神戸在住、六ヶ月も入院中の二〇代後半のコピーライター)とさかな君(若年性糖尿病患者で荻窪在住、二〇代後半の魚屋の跡取り息子で入退院を繰り返している)と三人で外出して、外のレストランへ食事に行ったり、喫茶店に行ったり少し羽目を外し始めた。そのうち羽目の外し方が目に余るものになってきたのだろう。一度熊田Drから療養態度を注意されたことがある。
さかな君が自分の中古外車を病院へ持ち込んでいたので、外出しやすかったし、外車にも乗せてもらいたかった。当時は今のように駐車場が整備されておらず、料金も取られなかった。原っぱの一画が一応駐車場のように囲われ、草取りなどもされていたが、雨が降ればドロドロになるむき出しの土のままだった。病院の敷地全体に空地も多く、どこにでも置いておくスペースがあった。

この前にも書いたが、入院中の食事は本来治療的にも大切な治療の一貫だし、食事療法と呼ばれるものがあるくらいである。何より肝臓病患者にとって、食事療法は生命線でもある。昔は食事療法と安静が肝臓治療の基本だった。というよりそれしかなかったと言った方が良いかもしれない。患者さんにご飯をきちんと食べてもらうということが基本だと思えるが、とても食が進むようなメニューには当時なかなかお目にかかれなかった。兎にも角にも献立に鶏肉料理が多いのには参った。だが、これは肝臓食の基本でもあった。
もったいない
私は食べ物を残したら怒られるという戦後間もなくの風土の中に育ち、食べ物を残すことができない性質なのだが、毎日のように出てくる鶏肉はそのうち残すようになった。だからと言っちゃなんだが、外へ食べに行きたくもなるというものだ。「米一粒残すと目がつぶれる」という言葉が私と同世代の中にもピンと来ない人がいるというのは、育った環境の違いなのか、そんなことはもうとっくの昔に忘れてしまったというのか。
大学院修士課程の一年の時、学部生の人達と昼ご飯を食べに行ったことがあり、お茶碗に米粒を食い散らかしたまま「ご馳走さま」と言ったので、「バチが当たるよ」と言ったら綺麗に食べた。地方出身の育ちの良いお嬢さんだった。その後会食した記憶がないのは、彼女の中にトラウマができ、避けられていたのかもしれない。

食事療法という言葉があるくらいなのに、何故こんなに美味しくない料理を平気で出し続けられるのだろうか?と、病院の姿勢には常々疑問を感じていた。何年くらい前だったか、入院した時に食事の内容がすっかり変わっており、美味しいとさえ感じるようなメニューに出会えた時にはびっくりした。嬉しくもあった。食事近くなると待ち遠しく、楽しみにさえなった。これが本来の望ましい姿である。病気になることだけで食欲を失う人がどれほどいらっしゃるかを想像してみていただきたい。
小さい頃、私は肉や魚は殆ど食べられなかった。別にベジタリアンでもなければ、家系の中にベジタリアンがいたとはこれまで聞いたためしもないのだが、魚を見るとギョとなり、肉を見るとギュという顔つきになった。カレーライスに入っている肉の欠片を食ベ始める前にひとつ残さず摘み出していたし、とんかつは衣しか食べなかった。蛋白源は卵と大豆製品、ウナギくらいだったか。主なものは毎日の牛乳だった。当時はまだ贅沢品だったおいしい牛乳を一日に二本くらい飲んでいた。中でも鶏料理は一番の苦手だった。長ずるにつれ、好き嫌いな食べ物がなくなり、何でも食べられるようになったが、鶏料理が美味しいと感じるようになったのはつい最近の事である。

GOTもGPTも正常値にはならず上がったり下がったりしていたが、低位安定していたのでその後間もなく退院許可が下りた。入院生活の継続がかなりひどいストレスに感じられるようになったので、自宅療養を願い出ていたのである。精神的ストレスが肝臓に良くないことはよく知られていたので、熊田Drも見るに見かねたのだろう。退院できたのは入院から実に一〇〇日をゆうに超していた。長かった。辛かった。しんどかった。精神科に長期入院している人たちの気持ちの幾らかは分かった気がした。そう言えば、母親はどんな気持ちで長期療養生活を続けていたのだろう。

退院だぁ~
 一九八三年四月一九日に入院して、退院が七月三〇日、一〇二日にわたる長い入院生活となった。一九八三年と言えば、東京ディズニーランドが開園し、「おしん」ブームが湧きおこり、ファミコンやワープロの「書院」が発売され人気を博した年である。ミリオンセラーに「さざんかの宿」が名乗りを上げ、次いで「矢切の渡し」、「めだかの兄妹」がヒットを飛ばしていた。私自身は「氷雨」にとても惹かれ、よく歌っていた。映画では「E・T」や「南極物語」、TVでは「積み木くずし」が評判となっていた。また大学の学生劇団で仲の良かった風間杜夫が「スチュワ―デス物語」で一躍お茶の間の全国区に名乗りを上げた年で、とても嬉しい出来事だった。
 満を持した退院の日は真っすぐに自宅には帰らず、鎌倉婦人の家に向かった。明くる日に息子さんの運転でご夫婦、娘さん、私の五人で、天然ウナギを食べに沼津まで足を延ばした。家族ぐるみで仲良くなっていたので、退院を祝ってくれたのである。何と美味しかったことか。店内の様子はおぼろげだが、「うな重」の姿ははっきりと昨日のように浮かんでくる。大きな鰻で重箱からはみ出していた。「俺だぞ~!」と主張するように手足をいっぱいに広げ、ちがった、頭と尻尾をいっぱいに広げ主張しているようだった。天然特有のしっかりとした濃い味だった。肉厚も凄く、食べごたえがあった。天然ウナギはやはり素晴らしかった。
 
退院してからは、隔月に外来受診をし、肝機能値のチェックを行った。入院中と同じようにはかばかしい進展は見られず、なかなか正常値まで下降してはくれなかった。その頃、自宅療養生活が次の年の三月の初めまで続くことになろうとは考えもしなかった。一ヶ月の予定で有給休暇願を出し、途中から病気休暇になり、ついに傷病手当金の申請という事態に突入した。確か就業規則では傷病手当金の期間が二年を超えると解雇できると書かれていた。このまま休職状態が続けばと考えると穏やかな心地ではなかった。心臓がキューっと締め付けられる感じがした。
 傷病手当金というのは、直前の基本給の六割しかもらえないし、いろんな手当てが付かなくなる上、健康保険料や雇用保険料などの社会保険料は従来通り差し引かれるので、手にするお金は極端に少なくなり生活が苦しくなる。家でボーッと過ごしていても身体に却って悪いと考え、保健所デイケア(精神障害者の人達のリハビリ訓練事業)の週一日の仕事に復帰をした。仕事がハードではないので、身体への負担が少なく、経済的にも助かると考えた。ほどなく他の保健所からもデイケアを手伝って欲しいと依頼があり、二ヵ所の保健所でデイケアをすることになった。

リハビリを兼ねて
南新宿診療室の手伝いも再開した。丸野Drは多芸多才の面白い人で、ジャズのベーシストであり、ボーカルもやる。週一でボイストレーニングにも通っておられた。月一くらいはクラブ(ホキ徳田の店だったかな)へ出演もなさっていたとは後から聞いた話である。彼に一度新宿の小さなバーへ連れて行ってもらったことがあるが、その時の歌声にはうっとりしてしまった。今を時めく草間彌生さんの当時主治医でもあり、クリニックには彼女の絵が何枚もいつも壁に立てかけてあったので、よく彼女の絵は見させてもらったが、今のような姿は想像できなかった。
彼を初めて見かけたのは、今の芸術療法学会の前身の集まりであった。日本芸術療法学会というものがまだ設立されていない時代である。外国では当時既に治療として認められていた芸術療法は、日本では今もってまともに扱われていない。外国の大学院を卒業してアートセラピストの資格を取得していながら、日本へ戻って来ると、専門職とは言え日雇い労働者としての扱いであり、僅かの日銭をもらって活動をしている人がなんと多いことか!絵画においても、音楽においても同じこと。薬より有効な手立てとなることもあると思えるのに、とても残念だ。
新宿の弁天町にある神経研究所の所長であり、附属病院である晴和病院の院長でもあった徳田Drは草葉の陰で、現在の日本の今もって変わらない情況をきっと嘆いておられるに違いない。先達の夢はいまだ殆ど実現されていないのだから。同じ夢追い人としては、慙愧(ざんき)の念にたえない。

書くことも読むことも喋ることも苦手だった
芸術療法のことを熱く語ってしまったが、高校時代に目覚めてから文学書や哲学書を読みふけるようになったが、芸術全般にも惹きつけられるようになった。絵画、写真、書道などの展覧会に足を運び、音楽にも目覚めた。クラシック音楽を毎日聴くような生活になり、クラシックに少し遅れる形でジャズにも夢中になった。小学校時代、国語の時間は苦痛だったし、音楽や美術などはもっと嫌だった。クラシック鑑賞は眠たくて仕方なかったし、唄の試験ではこぶしを回すなと叱られた。孤独な私を歌謡曲が支え続けてくれていたのだから仕方ない。
身体も弱く、しょっちゅう扁桃腺を腫らして高熱を出し、学校を休んでいた。また、鼠径ヘルニア(脱腸)をいつ頃からか抱えていたので、体育の時間は殆ど見学していた。腸捻転を危惧してのことである。だから、美術も音楽も体育も通信簿で「二」をもらったことがある。芸術もスポーツもこよなく愛する現在の私の姿からは想像できないだろう。
書くことも読むことも喋ることも苦手で、授業の間は教科書を立て、その陰に身を沈めるようにして過ごした。先生と目が合って当てられるのを恐れていたからだ。小学校の夏休みの宿題の最大の難関は読書感想文だったし、国語の時間に立って本を読まされる時はいつも足が震えていた。じっと座っていること自体が難しかった。現在ならADHDとされていたかもしれない。
授業が終わると一目散に校庭に出て遊んでいた。家に帰ると、晴れていれば外で遊んだ。外に出られない時は暗い部屋で漫画ばかり読んでいたので、視力を悪くし、小学校二年生の時に眼鏡が必要となった。全校で眼鏡をかけているのは私だけだった。当時の小学生の視力はみな良かったようだ。眼鏡はセルロイドの太いフレームしかなく、レンズもガラスの重たいものだった。視野が狭くなり、眼鏡が直ぐずり落ちてくるので不便で、鬱陶しかった。何よりもダサいのには参った。見目が悪く、野暮そのものだった。

書くことが楽しく感じられるようになって
読むことについては高校時代に文学や哲学に目覚め、読み耽るようになって克服できたが、書くことはずっと苦手なままで、大学・大学院を通してレポートや論文には苦労させられた。五~六年前から八王子障害者団体連絡協議会(以下八障連)の通信にこの『肝炎闘病記』の連載を始めてから、生まれて初めて書くことが苦痛と感じなくなった。シルバーエイジと言われるような歳になって、書くことが楽しく感じられるようになるとは吃驚仰天である。幸せであり、有り難いことだ。
そんな背景があり、よもや闘病記を書けるようになるとは思いもせず、過去の資料は殆ど捨ててしまっていた。手帳と一部残された資料や虎の門病院から取り寄せた私の過去の全ての血液検査データと一部のカルテのコピーを見ながら、記憶を呼び覚ませ、つなぎ合わせつつこれを書き続けている。

病気がくれた素晴らしい出会いと交友
一九八三年の手帳を繰りながら振り返ると、この年はいろいろな人との出会いがあったのだなぁと懐かしく思い出しだ。二~三のアルバイトをしながらも病気療養のための休職中だったので、時間がたっぷりあり、いろいろ出歩けたのだ。実にたくさんの人に出会い、彼ら、彼女らに支えられてきたのだなぁと深く感じ入るばかりだ。
二〇一六年に亡くなった若宮啓文さんとは長野県の丸子町(上田市)にあった共有の別荘へよく一緒に出掛けたし、彼の自宅にも随分お邪魔している。朝日新聞論説主幹にまで上り詰めようとは当時思いもしていなかった。
南新宿診療室で出会った看護師さんが結婚して鬼海と姓が変わった。「変わった名前だ、奇怪だね」と冗談を言ったのが昨日のように思い出される。その旦那さんの初個展に行ったことはすっかり忘れていた。旦那さんとはその後有名になった写真家の鬼海弘雄さんである。二年前だったか写真展で再会したのに、先日お亡くなりになった。合掌!
「断捨離」で一躍有名になった山下英子さんの家には縁があって、一泊させてもらっている。大学の後輩なのだ。在学中に一緒に食事をしたこともあった。療養生活という時間的ゆとりの中でこそ可能だった交流だ。
当時は病院勤めの傍ら、精神障害者のための地域の居場所作りのお手伝いをしていた。やっとのことで一〇月に「わかくさの家」をオープンさせた。翌年から本格稼働させようとしていた作業所の職員採用に向け、職員対策委員会に随分足を運んでいる。「わかくさ」と出会う前には福祉には殆ど関心がなかった。精神分裂病(現在は統合失調症と言う)の世界に魅入られ、その世界の謎解きに夢中になっていたのだ。

B型肝炎治療として開発された世界初のステロイド離脱療法とは
一九七七年から始まったステロイド離脱療法の治験患者に私がなったのは一九八三年であり、治験開始から既に六年が経過しており、実績も積み、ほぼ治療法としては確立したものとなりつつあった。実に七~八割の慢性肝炎患者が治っていたのであるが、治験患者としては一八七番目だったか、私の場合は成功例とはならなかった。
一九八三年四月にステロイド離脱療法を始めて、GOT、GPTが正常値内に収まるようになるのに約一年かかった。肝機能値が正常値内の治まるようになっても、ひと安心とならないのがウイルス性肝炎の厄介なところである。B型肝炎ウイルスが消失しない限り、再びウイルスが活発な活動を始め、肝臓を攻撃し、肝硬変、肝癌へと進展していく可能性が大きいのだ。
治るとはB型肝炎ウイルスが消失し、ウイルスに対する抗体ができるという事である。一口にB型肝炎ウイルスと言っても、単純ではなく、HBe抗原、HBc抗原、HBs抗原、DNA、DNAポリメラーゼ、RNAというもので構成されているウイルスの全ての部品が消失しなければならないのだが、当時全てが検出される段階までにはまだ至っていなかった。一番質の悪いのがe抗原で、他人への感染力も強く、肝細胞への破壊力も強い厄介ものだ。HBe抗体陽性になるとHBe抗原は段々消失して行く。このことを血清変換(セロコンバージョン)というが、私もこのセロコンバージョンを目標にしていた。

最初にB型肝炎ウイルスのキャリアと宣告された駒込病院では、一〇人に一人しか発症しないと言われ、その一割の中に入ってしまい、ステロイド離脱療法では治らない二~三割の中に入り、何と運が悪いのだろうと恨めしく思っていた時期がある。一九八三年七月三〇日に退院してからは二ヶ月ごとに外来に通院し、休職したまま経過観察をしていた。一九八三年四月から休職に入り、長引く療養生活から一九八四年二月初旬頃、突如傷病手当金がもらえなくなるのではと不安に駆られ、何日か躊躇しながら二月二一日の早朝ついに迷惑も顧みず熊田Drの自宅に電話をしてしまったことがあった。その日の様子は昨日のように覚えているが、かなり動転していた。

待望のセロコンバージョン
三月に復職してからもGOT、GPTは時に三桁を記録したり、上下動を繰り返しながら全体的には下降して行ったものの、セロコンバージョンが起こる気配がないまま日々が過ぎて行った。一〇月一五日の外来で熊田Drより「セロコンバージョンが起こった」と告げられた時の嬉しさは格別だった。これでB型肝炎から解放されると予想できたからである。肝硬変の一歩手前だったが、ウイルスさえなくなれば肝臓が元の柔らかい健康な状態に戻ることが分かっていた。おまけの人生をもらったような感じもした。To be or not to be,that is the question.ウイルスがいるか、いないか、私にとっては、とても、とても大きな問題だったのだ。
だが、その日のGOT、GPTは三桁を記録していた。だから、単純に喜んではいけない事態だったのかもしれないと考えたのは、再びウイルスが出現してからの話であり、後の祭だ。「ほぼ治ったも同然だな。」と心の中では飛び上がらんばかりの歓喜の声を上げていた。直ぐに私が発した言葉が、「先生、これでお酒を飲んでも良いですね?」だった。嬉しそうに頷いた先生の気持ちの中ではビール一本位のつもりだったかと思うが、もう治ったと確信した私がお酒を飲み始めると、元々強かったので時にはかなりの量を飲んでしまった。
 
大きな精神病院の改革をパラメディカルスタッフの立場でやりおおせる訳がないことは初めから予測していた。だからと言って腰掛けのつもりはなく、骨をうずめても構わないとも考えていた。だから、信頼して共に隊列を組める良心的な医師を招聘しようと、事務局長(オーナーの義弟)の同意を得て最後の二年間は医師探しでいろいろ駆けずり廻った。    
院長として勤めても良いと言ってくれた有名な医師もいたが、最終的にはオーナーからのOKが出なかった。また、事務局長とも一緒に数度お酒を飲んだりして招聘しようとした医師もいたが、経営者の体質を危惧したのだろう、最終的には応じてくれなかった医師もいた。オーナーの関心はお金のことしかないことが分かり、退職の潮時を考え始めていた。
丁度その頃に降って湧いた肝臓騒動だ。セロコンバージョンして明るい目鼻が経ったところで、チームの仲間に退職の意向を伝え、準備を始めた。一九八五年三月三一日を退職日に決めた。

三六歳、家庭もあり、子供もいる中での退職に不安がなかった訳ではないが、そのまま病院勤めを続けると自分に嘘をついて仕事を続けなければいけなくなると感じていた。お金のために欺瞞に満ちた人生を送るのは何よりも嫌だった。病院改革の夢がついえた時点で潔く身を引く決心をした。信頼する仲間たちにはその心情を伝え、同じように辞める意思を持つ仲間のその後を一緒に考えたいとも伝えた。辞める意思を持った仲間を一人ずつ送り出し、最後に私が撤退した。辞めるにあたっては後任人事をお願いしたが、全員分の補充は叶わなかった。残る仲間たちには少しではあったが、「あの病院良くなったね。」と関係者から言われるようになったある種の文化をできるだけ残して欲しいとおこがましくも伝えた。私を含め数名が退職した数年後、事務局長も退職したことを知った。














この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?