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20230908『凡庸で固有な存在が』

 じっさい、私は病気なのだろうが、しかし、あらゆる病気のカテゴリーは、便利であり危険なものでもあると思っている。

 たとえば、私は双極性障害と診断されているが、どういう状態であれ、鬱とか躁とか簡単に言われてしまう。すこし元気がなくなるだけで鬱という言葉をあてはめられ、すこし元気になると躁を疑われる。疑う人の気持ちはわかる。特に、元気になりはじめて、そのまま躁になってしまうと、取返しのつかないことになる。それは、同じく双極性障害の先人たちがたくさんの事例を残してくれている。

 とはいえ、すぐにそういう風に言われてしまうと、私はどうすればいいのかわからなくなる。鬱だとか躁だとか、それ以外の状態だってもちろん私にもあると思うのだが、何かとどちらかにあてはめられてしまう。いま、自分が他人にどう思われているのか、過剰に気にしてしまう。気にする余裕があるうちは、元気でもその程度の鬱であり躁である、ともいえるかもしれない。しかし、常にそういうことを意識してしまうのは、もちろん私が勝手にやっているだけなのだが、ややしんどいことでもある。

 健康の大切さは、年齢を重ねるたびに実感している。健康でないと、できないことだらけだ。こうして文章を書いているのも、ある程度健康だからできることだ。鬱に落ちてしまったら、私は布団の上で横になることしかできない。横になりながら、何もしたくないと思いつつ、そして何もしない状態もきつくて、すべてから逃げ出しているにもかかわらず、すべてから逃げ出したいと思っている。家にいるのに、家に帰りたいと強く願っている。

 そもそも病気とはいったいなんだろうか、そういう問いも楽しいのだろうが、しかし泥沼にもハマっていきそうだ。そう、とにかく私は躁鬱であることは間違いなく、それは治療し続けるべきことなのだろう。それはそれでいい。ただ、そこにおける治療の仕方と、治療によってどのようにありたいかは、自分で考える必要がある。

 躁鬱と言っても、たとえば一型と二型がある。おそらく私は二型にあてはまる。そして二型といってもまた千差万別だ。医学はもちろん役に立つが、それだけに頼ることも危険だ。自分という存在は、凡庸であり固有なものであり、それを理解するには、多少のコツがいる。だから、自分のことを理解するために、躁鬱であるということを利用しつつ、躁鬱という言葉にあまり頼りすぎないことも大切なのだろう。

 躁鬱だから、薬を飲んだりはする。その調整は、主治医とこれからもやっていく。だが、それだけがすべてではない。普段の生活における、いわゆるセルフケアの部分、生き方の工夫は、私だけにあった、私固有のものを見つけなければならない。

 それは一つ一つはとても小さいものかもしれない。何時に起きて、何時に寝るのか。どんな食事をして、どんな運動をして、どんな人とコミュニケーションをとって、どんな仕事をするか。そういうことだ。そういう一つ一つを自分に合ったものを選ぶ必要がある。

 そしてそれを選ぶには、とにかくやっていかなければならない。経験しなければ、それを理解することはできない。私はコンビニ店員の仕事はわりとやれていた。しかし、続けることはできなかった。それは、体力が足りなかったのか、私にとってコンビニという仕事はストレスが溜まりすぎたのか、それともセルフケアのやり方が悪かったのか、あるいは憂鬱な気分になったときの対処法が悪かったのか。それをこれから考える必要がある。 

 また仕事を探し出す。それはお金を稼ぐというのが一番の目的だ。しかし、なんとかなるんじゃないかと楽観的でもある。楽しみでさえある。とりあえずやってみようと思う。私という凡庸で固有な人間ができる仕事を探して、楽しんでにやにやしながら生きる術を、私なりに見つける。それが生きることであり、生き方の問題だ。
 

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