くるしみの先にあるもの

みなさん、こんにちは!まっきーこと石牧です。講演会までまだ1週間もあるのにすでにソワソワしております!!緊張ですwwさて、今日は楽読の受講生でプロのキックボクサーである日下滉大(くさかってぃー)さんの試合を観に行ったときに気がついたことを書いてみようと思います。

1. スタートは私の妄想

最初に断っておくと今回書くのはくさかってぃーさんのことではありません(くさかってぃーさん、読んでいたらごめんなさい)。彼は危なげなくしっかりと勝ってくれてとっても良かったのですが、今回お話ししたいのは彼が出場した次の試合にある女性選手のことです。彼女は自分の出番の前からずっと通路で準備していて、この試合に賭けているのがひと目でわかりました。試合前にもたくさんのスポンサーさんから激励賞をもらっていて、きっとたくさんの人たちに応援されて、期待を背負っていることが何となく想像できました。そしていざ試合です。試合は3ラウンドでは勝敗が付かずに延長の1ラウンドに突入。

でも、この選手は判定で破れました。試合が終わってもしばらく通路で横になってずっと泣いていました。きっとこの試合のためにたくさん努力して、もしかしたらたくさん我慢もしているのではないか。たくさんの人たちから応援してもらっていたのに期待にこたえられなかった悔しさがあるんじゃないか。あのときこうしていたらと後悔しているんじゃないか。そんなこんなを想像したら、ひとりで勝手になんとも言えない気持ちになってしまいました。

2. くるしみこそ人生の「黄金」

人生いくら努力してもすべて上手く行くことはありません。試合のためにどんなに努力しても必ずしも”勝利"というよい結果が得られる訳ではない。いやいや、しあわせなこともくるしいこともその人に必要だから起こっているんだよ。確かにそうなんだと思います。でも、努力したことが報われなければくるしい。自分が掛けた時間や労力が大きければ大きいほど、その悔しさは何倍にもなって帰ってくる。できることなら悔しさだって後悔だって、くるしみだってそんなものは味わいたくない。だって単純につらいから。そんなことを考えていたときに、最近参加したセミナーで紹介されていたある言葉を思い出しました。

苦悩が人生の一部だというと、一見奇妙に思われるけれども、全然奇妙ではないと誰もが思っています。正常な心理状態で生きている人も、どんな苦悩も本来の人生の一部であると大なり小なり知っています。ぜひ一度、自分の胸に聞いてみてください。正直に考えてみてください。過去の人生から、たとえば恋愛生活から悲しい体験を消してしまいたいか、そのとき苦しみ悩んだ出来事、「苦悩の体験」の出来事のすべてがなかったらよかったと思うかと。たぶん、だれだってノーというでしょう。嫌な時期だったとしても、ちょうど人生のこの時期に自分が精神的に成長し成熟したことがとにかくわかっていますから。(フランクル『それでも人生にイエスと言う』p.69)

世の中の多くの人は、人生においてかなしみやくるしみに対峙したときにそのことを「石ころ」思って手放そうとする。でも、そんな「石ころ」のような苦悩こそ、人生における「黄金」なのだ。石ころと思っていたものでも、割ってみたらダイアモンドが入っているかもしれない。だからこそ、そんな「石ころ」を決して粗末に扱ってはいけない。

フランクルが「それでも人生にイエス」と言えるのがちょっと想像できないすごさです。去年の今頃の自分だったら、正直、この言葉の意味は分からなかったと思います。いや、意味が分かったとしても、確実に納得はできていなかった。でも、今はくるしみこそが人生の恵みであるとなんとなく思える自分がいます。それは、私が変わったのではなく、周りの皆さんがそんな私の価値を認めてくれているからです。私もまだまだ道半ばですが、願わくば彼女もいつの日かそんな風にくるしみを人生の「黄金」と思える日が来るといいな。そんな祈りのような想いを感じたひとときでした。

今日はこんなところで


楽読のインストラクターやってます♪興味があったらぜひ!


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