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忘れない、父の日

今日、2021年6月20日(日)は、父の日。

わたしは、ずっと父のことが好きではありませんでした。それでも、父が、前頭葉型の認知症になってから、毎日、今まで言わなかった「おはよう」の声をかけてみたり、顔を見合わせれば「ニコッ」と笑う。

たとえ、何の反応もなかったとしても、そうしていることで、昔からあった暴言や、最近、とくに顕著になってしまった暴力が収まってくれるのであれば、苦労している母のためにも、一世一代の大芝居を打つことは、やぶさかではありません。

父は、6日ごろから、ドアを殴ったり、台所の流しに、湯飲みを投げつけて叩き割ったり、風呂場の壁を殴ったり、元気よく走って来てテーブルを蹴っ飛ばしたりと、本当に様子が変わってしまいました。

何か、父の中に、自分でも表現できない「苛立ち」「不満」「不安」、自分では解決しようのない何かに対する苦しみ、悲しみ。なにより、自分が何も出来なくなって変わっていくことへの恐怖、40年以上連れ添ってきた妻に対する、言葉にできない複雑な気持ち

ここ最近、それらが爆発しているように思います。ですけれど、それはもちろん、父からのSOSだということも、少しは理解しているつもりです。

ですけれど、とうとうわたしと母は、限界を迎えてしまいました。

今までわたしの前では、決して弱音を吐かなかった母ですけれど、「限界」と、はっきり言ったときに、わたしは「母がまともに生活できる」ことに、生活のすべてを切り替えるため、「父を入院させる」ことに決めました。

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決まったら、短期勝負です。グズグズしている時間はありません。

主治医への直接メールは禁止されているので、まずは病院のホームページを検索。そこから一般の「質問メールアドレス」をコピペ。切実に「父が暴力をふるっている」という現状を、写真を添付してG-mailから送信

そのまま、主治医とわたしたちを繋ぐ「取次」の担当者へ、早朝から電話で依頼し、「メールを見てください」ということと、状況を伝え、対応を願い出る。「あと2日くれれば、主治医と調整できる」ということになり、長い長い2日間を、「いつ何を蹴っ飛ばしたり殴ったり、破壊しないだろうか」とおびえながら、母と過ごす。

これまでも、父は不機嫌そうな表情をすることがあったのですけれど、もう最近の父の表情は、本当に般若や鬼の能面のような、あるいは「あやかし」の面のような、「険しい」という表現では足りない、何かが乗り移って憑りついているような表情になってしまいました。わたしの知る父は、もうここにいません。本当に別人になったのです。

「今日は検診の日だからね」と言って、父を連れ出し、母と歩きながら病院へ向かいます。「マスクを取って表情を見てもらっていいですか?」と了解をいただき、父の表情を見てくださる主治医が一言、「険しいですね」。


主治医の方が気を利かせてくださり「じゃあ、お父さんは、簡単な体重検査や計測をしましょうか」と外へ出してくださり、看護師の方々がつきっきりで父の対応をしてくださる。そのあいだ、母とわたしの泣きながらの訴えを聞いてくださる主治医。何度も似たような場面を見てきたのでしょうけれど幸いにしてご理解くださった。

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幸運だったのは、主治医の元へ伺う前に、先ほど書いた「一般の窓口メールアドレス」へメールしておいたことと、担当に電話をしていたこと。わたしのメールを印刷し「資料」としてカルテにくわえてくださっていたので、父に対する「ここ最近、嫌なことがありましたか?」という質問に対して、父が言った「なんにもありませんね」という発言を、主治医は「取り繕い」と即座に見破ってくださる

幸か不幸か、入院は可能ながらも、入院日は「1週間後」。担当の看護士の方も「間が空いちゃいますからお辛いでしょうけど、あと少し我慢してください」とのお言葉。受け入れてくださるだけでもありがたい。ですけれど、確かに、「人生で一番ながい一週間」になることは間違いなさそうです。

病院内で、父と母を別にして、わたしと看護師とで事務的な手続きを進め、パンフレットをもらいました。「やっぱりか」と思いましたが、やはり次のような内容を覚悟する必要がありました。

1)死んでも文句言わないでね
2)出来る限りはするけど、ダメなときはダメ
3)ひどい場合は、部屋のロック、および、拘束あり
4)1か月フルで25万ぐらい
5)面会はできないから

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このようなことですけれど、緊急事態宣言、まん防、そんな最中にもずっと孫を呼んで、遊園地みたいに朝から晩まで走らせ、わたしの母を1年かけて坐骨神経痛にして歩けなくさせた、マンションの上の階に住む厚生・民生の役員に就いている、無神経なA家の住人の「ドタバタ走り回る遊園地みたいな音」に、現在の父がどんどん不機嫌になっていくよりはマシなのです。

それにしても、「このコロナのご時世、みんなが我慢している最中、平然と11:00~21:00まで孫を走らせ、机やいすから飛び降りさせ、躾けの「し」の字もない、ただの一度たりとも「うるさくしてすみません」と、直接詫びも入れられない一族の人間が、何で厚生・民生の役員に選出され、我が家が払っている維持管理費から報酬もらってるの?!」という疑問は、募るばかりです。

け、れ、ど。

自宅で父のことだけでも手一杯なのに、いちいち「屋根裏の騒音」のことを気にしないといけない現状には、本当に辟易しますけれど、非常識な人間のことをいくら考えても、それ自体がストレスで時間の無駄です。すべて済んでから、然るべき対処をとる所存でございます。

こういう特殊な環境下にあるため、父の症状が日増しに悪くなっていくことも致し方ないのかもしれませんけれど、それにしても進行が早いのです。

たしかに、上の階の住人が「ドン!」と足音を立てたと同時に、脱衣所の壁を「バン!」と殴る音がするので、上の住人と父の存在が、わたしの不満と苛立ちの原因になっているのは間違いありません。しかも、その繰り返しが父の「反復行動」に繋がる面も否めません。

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……と、そんなことが書きたかったのではありませんでした。すみません。

今日、父の日。父の入院に備えて、母が、父の少し伸びた髪を、バリカンで刈ってあげました。終わって部屋へ戻ってこようとした父のズボンは、失禁でぐっしょり。フローリングには、オシッコの足跡がくっきり

実は、昨夜から3回ぐらいは失禁をして、そのたびに下着と服をお着換え。そして「大きい方の残骸」がシーツに付着。深夜1時30分ごろに、濡れた床を、母はタオルで拭いていたようでした。

認知症にせよ何にせよ、介護を他人に預ける場合のひとつのバロメーターはシモの世話が必要になってしまったときです。わたしの父にも、とうとう、そのときが来たんだ、と実感しました。

母は睡眠不足がひどくなって、はっきりと表情に出ているのですけれど、気付かないのか、分からないのか、父は無反応。ただただ、厳しく険しい表情をして起きて、一日中、リビングでテレビを観ているだけです。

というよりも、正確にいえば、そこから動かさないようにしているのです。部屋へ入ると、ドアを蹴とばしたり、不穏な行動が多くなるのを、言い方は悪いですけれど、「監視している」のです。だからこそ、母もわたしも、前から限界になりかけていました。自分の時間がないからです。

父は、妙に足が健康で、自分で歩けるために、脚力が強いところもありますから、その足で机やドアを蹴とばされると、本当に困るのです。ですから、うまくリビングに寝転がってもらって、わたしもそこに付きっきりです。

その間に、母は洗濯や料理をします。母がいれば、わたしが風呂掃除や食器洗いをします。そうやって、父の前に存在することで、「どこかへ行った」という不安感を無くすことに、ここ半年ほど、努めてきました。そうやって何とかルーティンを作って来たつもりでしたけれど、今回のように、僅かにでも目を離すと、ドアを蹴とばす、走ってきて机を蹴っ飛ばす、おまけに、自分でシモの処理ができなくなるでは、もはや介護の素人のわたしたちではどうにもならない。そのことを、つくづく悟りました。

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今日、わたしは母に父を任せ、その足で、近所の洋品店へ向かいました。

そこには「父の日フェア」の青い垂れ幕がかかっていました。そんななか、わたしは「父の入院」のために、そして現実的に入院までの時間、そろえておくべきシーツやらブリーフやらを買いに行きました。もちろん、店員さんからは「ギフト包装をしますか?」とは言われませんでした。

でも、ここにあるものは、暴言を吐き、湯呑を投げつけ、小水や大便も漏らしてフローリングや風呂場を汚し、別人のような形相になったわたしの父が入院をするまでの当面の生活や、入院をした後も必要になるであろう品物であり、わたしなりの「父の日」なのです。

おちょやんは「生きるというのは、本当にしんどくて、おもろいなあ」っていうけれど、そこまで前向きにはなれなかったなあ

仲の良いご夫婦の奥様が「どんな人生を歩んでいきたいのか。今の人生を、無理せず、健康に」っていうけれど、我が家の父と母は、もうそんな関係は作れなくなってしまったんだなあ。

「楽しく健やかに」。そんなことは、父には、もう無理なんだと思います。

そうして等しく、「父の日」は日本人に訪れているのでしょう。洋品店には何かお父さんのために買っている、母娘の姿がいくつもありました。この子たちにも、いま元気なお父さんやお母さんを介護する日が来るのでしょう。そして今のわたしが見つめているように、あの日を懐かしく思うのかもしれません。

そういう人たちが、ひとりでも減るようなシステムを作ることが、国の在り方だったのですけれど、もはや幼稚な言葉しか話せない、頭の衰えた、外資の言いなりになった、100%お金のことしか頭にない人ばかりが国を運営しているようです。

それでも。

影の薄い「父の日」ですけれど、本当に父親との仲が険悪でないかぎりは、コンビニのチョコでも、適当な帽子でも、農家で売っている路地販売の野菜でも、楽々パンツでも、ハンカチでも、インナーでもいいですから、いまがいつで、ここがどこで、そしてアナタや家族が誰なのか、よく分かっているうちに「父の日……」とボソっと言って渡すだけでもいいですから、なにかコミュニケーションをして欲しいと思います。

では、明日もお元気で。



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