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“うつくしい”という感性の正体

“うつくしい”ってなんだろう。
この感性はどこから来ているのだろう。

自分の心がどんなときに、なぜ“うつくしい”と感じるのか。深堀したくて、今この文章を書いている。

私は大きく分けて、人・風景・音楽に対して“うつくしい”と感じることが多い。それぞれについて考えてみる。

①人

曇りのない笑顔をする人に心が動く。目が真っすぐでキラキラと輝いているのが分かる人。有名人で言うと、水原希子さん・キアヌリーブスさん・ゼンデイヤさん……など。


どこか癒えてない傷を抱えたり、心が曇っていたりしている人は表情に現れる。今までの人間関係を振り返ると、そういう人は交わりはしても、仲のいい関係が長く続くことはなかった。お互いプラスに影響し合う相性のいい人を、本能的に探しているのかもしれない。
幼少期を振り返ると、“笑顔”は母の口からよく聞く単語だった。
「笑顔は共通言語だから、とにかく笑顔でいなさい。」
まだ日本語が片言の私にとって、笑顔は周りに意思を伝えるための手段だった。今思うと、言葉が理解できないが故に、表情を読み解くことに注意していたのだと思う。

②風景

自然が作り出した、どこか神秘的な雰囲気のあるところに惹かれる。例えばで挙げると、中国桂林のカルスト地形・石川県白山の御手洗池・富士山……など。海に沈んでいく夕日、雨上がりに太陽の光に照らされた葉も好きだ。

桂林は母の故郷で、幼少期を過ごした場所でもある。幼い頃、祖母に連れられて、よく洞窟や山川へ出掛けた。空気汚染のイメージのある中国では、信じられないかもしれないが、当時は肺に入る澄んだ空気がとても心地よかった。
その頃の記憶が蘇るのは、いつだって自分が苦しいときだ。心の奥深くにある湖を覗き込むと見える映像。誰にも見せない、自分だけのオアシスだ。


③音楽

偽りのない真っ直ぐな音楽に鳥肌が立つ。それは、誰もが共感するような売れるための音楽ではなく、自分が作りたいと思うものを作っている究極のエゴだと思う。HIPHOPが好きなのもそれが要因だ。

そして、私はなぜか昔からアフリカや東南アジアなどの民族音楽にも惹かれてきた。前世はどこかの部族で音楽を奏でていたのかもしれないと妄想が膨らむ。音楽に内包された過去の記憶、人の思いが蘇るような感じがする。
大学生のころ、イベントスタッフとして参加したイベントで聴いた音楽「星降る島」が忘れられない。東ティモールの歌を日本語訳して歌っている。1分55秒あたりから聴いてみてほしい。

熱心な仏教徒だった祖母の家では、毎日音楽に近いお経が流れていた。いとこたちは嫌がっていたが、私はそれが大好きだった。祖母と散歩へ行く先々で、民族音楽が流れていたことも影響しているように思う。


私の場合、“うつくしい”という感性は、幼少期の頃にはもうすでに形成されていたように思う。「三つ子の魂百まで」は真実だと納得せざるを得ない。この文章を書いてて、分かったことがある。私の“うつくしい”の感性には、祖母と母の記憶が内包されているということだ。その祖母と母の“うつくしい”という感性にも、さらに多くの記憶が内包されている。自分の大切な人たちの感性が蓄積・調和され、今私の“うつくしい”という感性を形作っているとも解釈できるだろう。
今はもう星になってしまった祖母は、たしかに私の中で生きている。心がじんわりと嬉しさを感じた。

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