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【日本史#11】平安時代2 - 菅原道真【歴史】

この時代は比較的に穏やかに過ぎていきます。ただし、それは形上であり影では陰謀論がチラホラあったようです。

平安京の応天門が燃える

炎(パブリックドメインQ)

866年に応天門が火の気がないのに炎上します。太政大臣(現在の総理大臣のような位)の藤原良房が放火の犯人探しをします。

大納言の善男(とものよしお)が信(みなもとのまこと)が犯人ではないかと発言するも藤原良房が擁護し無実となります。

源信は肩身が狭くなったのでしょうか位を退きます。

ここで都合よく放火の目撃者が現れ、伴善男の父子が関係しているのだと証言します。

応天門に火を付けて源信を犯人にしようとしたのではないかと憶測が立ち、伴の関係者らは島流しにされてしまいました。

結果的に権力者2人がいなくって、藤原氏は摂関政治で政権を握り益々繁栄していきます。

学問の神様 菅原道真

藤原時平は父の基経が亡くなり、まだ若いという事もあって摂政と関白にはなりませんでした。

それでも力のあった彼はライバルの菅原道真が邪魔でした。そこで道真を遣唐使として国外へ追い出すよう企てます。

しかし、道真は唐は滅亡間際でもう得られることは少ないと皇子に伝えそれを回避し、894年に遣唐使は廃止されます。これが有名な白紙に戻そう遣唐使のゴロですね。

時は流れ天皇が変わり、藤原時平を左大臣に菅原道真を右大臣としました。

道真の力が益々強くなっていくことを恐れた時平は天皇に道真のことを讒言(ざんげん:ありもしない事を告げる)します。


時平は道真が天皇に歯向かう謀反(むほん)を企てているとでも申したのでしょうね(;'∀')

処罰として道真は九州の太宰府に都を追い出されてしまいます。

ちなみに道真は幼い頃から学問に励み、文章博士にもなっていたようです。とても秀才だったのですね。

この記事を書きながら中学の修学旅行で太宰府天満宮に行ったことを思い出しました。お守りか何かを買っていたような(*'▽')

菅原道真の怨霊!?

道真は大宰府に追いやられて2年くらいでこの世を去ってしまします。とても貧しい生活だったようです。

罪を着せられ家族と離れ離れとなり、さぞかし無念だったのでしょう。

それ以降、都では藤原家に不幸が連続して起こります。

落雷に打たれる者

病にかかる者

藤原の一族は何人も不幸で亡くなり、そして時平も39歳の若さで死んでしまいます。

その20数年後にも館に落雷が落ち、何人のも公家(くげ)が亡くなります。菅原道真の怨霊として語られていますね。

道真の怒りを鎮めるために北野天満宮が造られました。調べたら九州じゃなくて京都にあるのか( ..)φメモ

怨霊って絶対にあると思います!

確認問題

  1. 応天門が燃えて2人の権力者がいなくなった。誰

  2. 菅原道真を遣唐使として追い出そうとした人は

  3. 遣唐使の制度は何年に無くなった?

  4. 道真の怒りを鎮めるために建てられたものは

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