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YOASOBIの革新

先の投稿「YOASOBIと出会う」の中で、以下のような記述をした。

ボーカロイド音楽がガラパゴス的に高度の進化を遂げたのは、とりわけ歌い手の都合を一切気にしなかったからという認識で間違いないと思うけど、だからあり得ない楽器演奏や過剰な音域の広さ、ブレス無視、早口や跳躍を駆使した自由で複雑な音楽が展開された。

これは、ネットのどこかで目にした考察を無思慮に援用したものなんだけど、3月30日に公開された「三原色」のショートバージョンを聞いているうちに、ふと怪しげな考察へと迷い込んでしまった。その上で取り敢えずたどり着いた結論は、たぶんトンデモなんだろうとは思うのだけど、上記引用の理解を否定するものとなってしまった。

以下、縷々備忘録の如くに述べてみたいと思う。順を追って説明しようとすると、「三原色」よりも大幅に時間線を遡る必要に迫られることになる。これも先の投稿でちょっとだけ触れた「夜好性」から話を起こさなければならないだろう。「夜好性」という言葉に出会うことで、当然のように「ヨルシカ」と「ずっと真夜中でいいのに。」も聞き込むこととなった。そこで感じていた違和感が、今回の考察の発火点となる。

少なくとも私の耳には、「YOASOBI」「ヨルシカ」「ずとまよ」の三者がそんなに近似しているようには聞こえなかった。確かに「ボカロ文化と歌ウマ女性ヴォーカル」という括りではあるんだろうけど、何か根本的なところで違っているように感じられてしまった。とはいえ当時は具体的に何が違うのか掴めず、感覚的に三者を捉えていた。「YOASOBI」沼には填まったけど、「ヨルシカ」は馴染めず、「ずとまよ」は面白いけど「惜しいな」という謎の上から目線の感想だった。

三者の取り敢えずの違いとして、まずは歌詞の聞こえ方を指摘してみたいと思う。「YOASOBI」の曲はいずれも歌詞がよく聞き取れる、どころか、「三原色」が正にそうであるように、スルッと心の奥底にまで抵抗感なく浸透して来てしまう。「ヨルシカ」は聞き取りにくかったり、心に届きにくかったり。「ずとまよ」は言葉遊びが過ぎて、程度にもよるんだけどちょっと遠慮したい気分になったりする。少なくとも私に関してはそう。

「YOASOBI」の歌詞の刺さり方については、私以外にも指摘してる人がけっこういるようで、もっぱらAyase さんの作詞力はもちろんのこと、何よりikuraさんの声質と歌唱力によるものとして説明されていると思われる。けれども、suis さんも ACAねさんも声質が違うとは言え、聞き取りやすさに遜色はないし、歌唱力も決して引けを取らない。なのに、少なくとも私の耳は、三者の間に超えられない距離を聞き取ってしまう。

この「夜好性」の括りが「ボカロ文化と歌ウマ女性ヴォーカル」という枠組みであるなら、私が感じ取ってしまう差異は、その枠組みの外にあるに違いない。というわけで「ボカロ文化と歌ウマ女性ヴォーカル」という括りを無効化(エポケー)してみることにして、あらためて目の前の「三原色」の特徴は何かを考えてみた。

音域の広さ、飛び跳ねる音符、歌詞の過剰もしくは早口、転調、あと何だっけ。いずれも語り尽くされてきたことだろうと思うけど、ちょっと待て、さも当たり前のように「早口」と書いてるけど、そして確かに歌詞としては早口だけど、これってそんなに「早口」なんだろうか。ikura さんの歌唱の特徴として「話しかけるように」というのがあると思うのだけど、実際にこの歌唱を口語の会話として捉えてみた場合、「三原色」はそんなに早口だろうか。

ここで一つ補助線を引いてみることにする。日本語は世界の言語の中でも最も音節を高速で発声することが知られている。日本語話者は平均して毎秒8音節を発声しており、これに対して英語話者は平均して毎秒6音節とされる。しかも日本語の音節の発話数のばらつきは小さく、一方で英語のばらつきは大きい。ちなみにこれはあくまでも音節数であり、言語による情報伝達のスピードは、どの言語もおおむね毎秒39ビットであるとされる。

つまり日本語という言語の音声学的な特性として、毎秒あたりの音節数が最も多く、しかもばらつきが少ないため非日本語話者からはマシンガンのように、という比喩すら聞かれる。その一方で音節あたりの情報密度が最も低い。ということは、日本語での歌唱は、英語と比較した場合、より「早口」であることが自然なんではないかという考えに至ることになる。

これもよく指摘されていることだけど、「YOASOBI」の楽曲の特徴の一つとして、1音に1音節がきっちり対応しているというのがある。「夜に駆ける」や「怪物」といった高いBPMの曲をikura さんが超絶技巧で音符を鮮やかになぞって歌うことによって、「YOASOBI」特有の楽曲となって私たちの心に刺さってくる。このような「YOASOBI」の歌詞のあり方は、実は日本語という言語の特性と極めて相性が良いと言えるのではないか。

さらには、日本語の音声学的特性として、開音節であり、高低アクセントであることが上げられる。開音節であるということはより母音が重要な役割を果たすと考えられ、これはikuraさん特有の驚異的な母音の調律の心地よさと繋がる。高低アクセントであるということは「飛び跳ねる音符」と「転調」との相性が良いことに繋がる。

英語と比較することで、これら特性は際立つことになる。英語は閉音節、強弱アクセント、毎秒あたりの音節数が比較的少なく、かつ各音節の長短のばらつきが大きい。これらの特性を歌詞に当てはめてみた場合、子音とリズムがより中心的な働きをすることになり、メロディーは言語としての特性だけで言うなら、副次的な働きに甘んじると考えることができるのではないか。そしてこのような英語の特性が、陰に日向にいわゆるポピュラー音楽というもののあり方に深い陰影を落として、支配し続けて来たのではないか。

話を最初に戻そう。ボーカロイド音楽文化について安易に考え過ぎていたことを反省したい。以上のような考察を通じて朧気ながらに見えてきたこと、それはボカロ音楽が「歌い手の都合を一切気にしない」のではなくて、「当たり前とされていたポップスの歌唱の常識」に囚われないことに始まって、結果的に英語の呪縛から解放された革新に到達していたんではないかということ。それと意図することなく、日本語という言葉に寄り添った音楽を模索し、なにものかに到達していたんではないか。

ボカロという言わば仮装に隠れるようにして密かに達成されていた革新、そんな未知の音楽にして、勝手に不可能と思い込んでいた歌唱を、生身のヴォーカリストが実現した、それが「夜好性」と取り敢えずは括られたムーブメントのもたらした革新の真相だったんではないか。

中でも「YOASOBI」はそんな革新を中央突破で現前して見せてくれた。それが「夜を駆ける」の意味なんであり、実際にこの曲の新しさと根源的な意義は深く静かに日本人のとりわけ若者に受け入れられて浸透し、結果的に日本を席巻することとなった。

このような革新がコロナ禍の2020年に実現されたのもまた偶然ではないだろう。生死を分かつような必然性によってのみ、人は変革の可能性に手をかけるチャンスを得ることができる。

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