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物理学に救われたはなし

こんにちは。姫岡といいます。物理学者をやってます。

小学生のころにいじめられて以降ずっと心に抱えていたモヤモヤが、物理学を学んで少し晴れた、という話です。

いまでは数学も物理も大好きな僕ですが、大学に入るまでマジのガチで嫌いでした。そこから好きになっていく過程は長いのですが、物理のとある『モデル』との出会いが、物理のイメージを大きく変えました。そんなこんなでそれ以降、長いお付き合いをさせていただいています。

ブラジルからの刺客

僕自身生まれは日本なのですが、父親が転勤族だったので1歳から6歳までの5年間、ブラジルはサンパウロに住んでいました。ええ、帰国子女です。

なんですけどね、ぜんっぜんポルトガル語も喋れなければサッカーも出来ないんですよ。

「幼少期5年間ブラジルにいました」と言うと「え、じゃあサッカーめちゃくちゃうまいの?!」と聞かれることが多いですが、全くです。

というのも

外でサッカーなんてしてたら絶対誘拐される

から。

BRICsなんて言われてめちゃくちゃ期待されていたけど、今も昔も変わらず治安の悪いブラジル。1990年代なんて経済的にはもうね…(1990年生まれです)

そんなブラジルで日本人駐在員の子供が道端をひとりで歩いてたらもう、100パー誘拐されます。身代金がネギ背負って歩いているようなものです。

なので外には出られませんでした(厳密にはアパートの中庭には出られたけど)
遊びといえば同じく日本人駐在員のお子さんと、カーレンジャーのVRVロボで遊んでたくらいです。あとあれ、恐竜に骨のっけてくやつ

パニックティラノっていうんですね。これ。

そんなわけで、1〜6歳というスポーツをちょうど始める時期に、ほぼほぼ外に出られなかったわけです。これが受難の始まりでした…

転校生の受難

なぜ両親は、小学校におけるスクールカースト最上位は「スポーツができる」ということだと教えてくれなかったのでしょうか。

もろもろの事情があり諸学校の間に4回転校したのですが(ブラジル→東京→広島→東京→千葉)、いやぁ馴染めない。クラスに馴染めない。

ブラジルでは現地人が通う幼稚園に行っていたのですが、そこに一人「おばあちゃま」と呼ばれていた日本人のおばあちゃん先生がいたんです。

新聞紙で剣やら兜やら作るのがとても上手で、男子にとても人気があったんですが、僕はそれ以上にポルトガル語が分からなかったのでずっとおばあちゃまにくっついてばかりでした。

なんで幼稚園でもほとんど友達はいなかったはず。

そもそも友達をつくる練習をしてなかったのに加えてスポーツが一切できない。むしろボールが怖い。そりゃ馴染めませんわ。

そういう訳でね、始まる訳ですよ嫌がらせが。

特に(なぜか)一番最後の千葉の小学校では結構頻繁に悪口言われまして。

僕あれなんですよ。人より顔がでかいんですよ。
帽子がすっぽり入ったためしがない。

(その点、西欧では顔の大きさは全く気にされないので嬉しいです)

なので小学校で毎日休み時間になるたび、女子を中心に「顔でかー」と言われ

徐々に自分の身体的特徴全てが嫌いになり

肌を一切見せたくなくなり夏でも長袖長ズボンがデフォルトスタイルになりました。

いま思っても女子に言われるのはきついよなぁ。その学校にいたのは小学校3−6年なので異性を意識し始める頃だし。

『共同幻想論』

そんなこんなで、「なんでこんなに皆からいじめられないといけないんだろう」と思いながら小学生時代を過ごしました(事件になるような例に比べればやさしいものだけど)

中学校は受験をして、暁星国際学園ヨハネ研究の森コースという、名前見るとなかなか大変なところに行ったんですが、まぁカリキュラムもやばくて

新しい教育カリキュラムを作るための『実験校』として文科省に指定を受けて、かなり自由な教育ができるコースだったんですね。

授業なし
学年割なし
クラス分けなし
時間割なし、、、みたいな。

朝から晩まで基本自分で勉強する、という学校です。もちろん先生に聞いたり出来ますけど。答えは教えてくれないけど。

以前取材いただいた記事にある程度書いてあるので気になる方はこちらを読んでくださいm(_ _)m

でですね、基本1日中なにやっても自由だったので本を読むわけです。

色々読んでいくうちに、戦後最大の思想家と言われる、吉本隆明の『共同幻想論』を手に取りました(なんでや)

その第1章、「禁制論」では柳田國男の『遠野物語』を分析しています。(当時の記憶なので間違ってたらすみません。)

『遠野物語』は、岩手県遠野地方の伝説(伝承)を集めたものです。

山の向こうにいったら大男がいて連れ去られるとか

息子の母殺しの話とか

オシラサマという神の話とか。

吉本は『共同幻想論』の中で集落の辺境、山に現れる巨人に関する伝承を分析します。

ものすごーーくざっくり、かつ曖昧な記憶を元に言うと、

遠野物語の構造として、「村の辺境にいる怪物」に関する伝説を作ることで、遠野の村の人々は「遠野の外に出ると恐ろしいことが起こる」という意識を共有し、「われわれ」と「彼ら(山人も含めた遠野以外の人)」を境界を明確にして、内部の結束を固めることが出来た

というような分析をしています。

これを読んでですね、

あーーー。だからいじめられたのかーーーー

と、結構納得したんです。

僕の顔がでかいとか

スポーツが出来ないとか

コミュニケーション能力が低いとか

そういうことは多分いちゃもんをつける「とっかかり」でしかなくて

本質的には「ウチ」と「ソト」を、「私たち」と「彼ら」を分けるスケープゴートになっただけなのかーー、と。

俺悪くないやん

と思ってすごく安堵したんですね。

こういう村とか小さい集落とかの成り立ちや歴史を研究する学問は『民俗学』(民族学ではない)といいます。

僕の身体的特徴や性格がいじめの根本的な理由ではないにしても、そもそもなぜこんな風に「内」と「外」を分ける必要があるのか。

それが知りたくて中学生以降、もっぱら民俗学関係の本を読むことにハマってました。

物理学に救われる

そんなこんなで、中学・高校のころは思想、哲学あたりを読んでまして、まさか物理学に行くとは思いもしませんでした。

その経緯を書き始めると、涙なしでは語れない超大作になってしまうので

なんやかんやありまして物理学科の3年生になりました

3年生の時の授業で、Ising (イジング) model というモデルを習いました。 

余談ですが、科学では「モデル」という言葉を頻繁に使います。
現実はあまりにも複雑なので、知りたい現象を細かい要素に分解して、きちんと調べることが出来るようにしたものをモデルと呼びます。

『住みたい街ランキング』などでは、男女や年齢層、年収に分けてアンケートを取りますが、その人の座右の銘などは聞きませんよね。

それは基本的に、人は性別、年齢、年収などによって住みたい街を決めるのであって、座右の銘などの影響は小さい、という「モデル」をアンケートを取る人が持っているからです。

で、Ising modelは次のようなモデルです。

=====================

碁盤の目状に家が並んでおり、それぞれの家の住人は東西南北1軒ずつとしか近所づきあいをしない、そんなヘンテコな街を想像してください。

その街で選挙がありました。選挙はA氏とB氏の一騎打ち。

たださらにヘンテコなことにその街の住人は無知蒙昧で誰もA氏とB氏について知らず、なんならマニフェストも読みません。

ただただ日頃のおしゃべりで、東西南北にいる「お隣さん」がどちらに入れるつもりなのかを聞いて、自分の意見を決めるだけです。

さて。選挙日である1週間後、街の意見はどうなっているでしょうか。

=====================

街の人はA氏とB氏について何も知らず、ただただお隣さんと「どちらに投票するか」を意見交換し、自分の意見を変えていくだけです。

重要なことなので補足しますが、この「意見交換」は論理的なやりとりではなく単に「いま自分はどちらに入れる気分か」を言い合うだけです。

加えて、この街の住民は同調しやすい性格を持っているとします。

もともとはBに入れようと思っていたけど、周囲でA派が過半数ならA派に寝返る可能性が高い。(Bのままのこともあります)

そしてある日 意見交換をした時に周囲がA派でA派に寝返っても、翌日の意見交換で周囲がB派ならまたB派になる。

「昨日Aって言ってたじゃん!」というのはナシ。

図にするとこんな感じ。周りがAならAになる。

選挙期間中に政党の情報は一切手に入れない怠惰な街人たちなので、合理的に判断する基準は持ち合わせていない、その意味でA氏とB氏は完全に同等であり対称です(AとかBとかいうのは呼び方なだけなので、名前を入れ替えても成立する)。

結果がどうなるか考えてみてください。

○ ○ ○

「1週間後半々になる」というのは素朴な、もっともらしい予想だと思います。だって両者は全く同じなんだから。

ただ実はある条件下だと、どちらかが100%の票を獲得することになります。

それぞれの意見を色で表して、街人がどのように意見を変えていったかをコンピューターシミュレーションしたのが次のビデオです。白がA氏支持、黒がB氏支持としましょう。どっちでも良いのですが。

最初はA氏、B氏それぞれの支持者は厳密に半々です。でも時間が経つと...

最初はA氏もB氏も、50対50の完全に対等から始めているのに、最終的に黒一色、B氏圧勝です。

○ ○ ○

なぜ一切選挙に関する情報を持っていない住人が全員B氏に投票するのでしょうか。

これは最初に説明した

空気を読んで、周りと同意見にする

という傾向の強さに依存します。

これが低いとみんな独立に適当に意見を変えたりするので、平均して支持者は半々です。

しかしこの傾向をある程度入れると、最終的には全員どちらかに100%投票するようになることが知られています。上で示した動画はその度合いが高い場合です。

この場合、B氏はおおよそ次のようにして100%の支持を得ました。

ある場所でB氏の支持者が偶然増えた。

その周辺にいる人たちはその偏りがあるエリアと近所づきあいをしているので、流されてB氏支持者が増えた。

偶然生まれた偏りは偏りを増強していき、最終的に全員がB氏支持になった。

つまり、偶然B氏が選ばれました。

○ ○ ○

実はIsing modelはもともと、意見形成のモデルではなくて磁石がどのようにして出来るか というモデルです。

物質を構成している原子一つ一つがめちゃくちゃに弱い磁力を持っているのですが、普段はみんなてんでバラバラな方向を向いて互いに打ち消しあって磁石になりません。

ただここでいう「空気読む度」、つまりは隣の原子と磁石の方向を揃える傾向を高めていくとある点で急に皆の向きが揃って永久磁石になる。そういったモデルです。

Ising modelにおいて面白いのは、A氏とB氏に本質的な差はない、あるいはどちらがN極になっても良いはずで、そこに判断基準はないはずなのになぜかどちらか一方が選ばれる。

こういったものを専門用語で「自発的対称性の破れ」と言って、「無」から生まれたはずの宇宙になぜ物質が存在するのかといった難問を解決するための重要なキーワードです。

自発的対称性の破れ という言葉の気持ちは
(「こっちを選べ」と誰かが支持したわけでもないのに)自発的に(本質的な差がなかった2つのものの間の等価性、すなわち)対称性破れ
という感じです。
ちなみに物理だと何らかの法則が破綻したり、性質が失われたりしたとき、「〇〇が破れた」(violated) という言い方をします。急に大和言葉なのがかっこいいですよね。

○ ○ ○

この自発的対称性の破れは宇宙の始まりとか、そういったことでもすごく重要なのですが、人のグループがどういう風に出来るか ということに関してとっても示唆的じゃないでしょうか。

さすがに実生活において、何の情報も持たずに2つの中から1つを選ぶ ということはないですが、「どっちでもいい」という状況の時は割と周囲が何を考えているかに流されがちですよね。

ちなみにIsing Modelのようなモデルは外乱にとても弱いです。
例えばフェイクニュースなどで一気にA氏支持者が増える、といったことがあるとそこからB氏が巻き返すのはほぼ不可能です。なぜならこのモデルでは『周囲が誰を支持しているのか』にのみ価値があるからです。
この性質自体、そこそこ現実を反映しているように思う研究者もいるので、モデルをもう少し複雑にし(SNSなどのフォロワーの数を考慮に入れたり)、選挙でフェイクニュースがどのように拡散していくのか、といったことを研究するために今日でも使われたりしています。

追記)
加えて言えば、このモデルではひとりひとりはたった4人の「ご近所さん」としかコミュニケーションをしていません。

そこには多くの人に影響を与えられるマスメディアもなければインフルエンサーもいない

それなのに全体がひとつの意見に収斂していく、というのがモデルの面白いところです

○ ○ ○

このモデルを学んだ日、僕は感動していました。

人はどのようにしてグループの「内」と「外」を作るのか、そもそもなぜグループをつくるのか。

小学生のころから苦しんできた疑問で、どうやったらそれを理解できるのか再三悩んできました。

それは村落の安定を保つための民譚などにもみられる性質で、人間に本質的な何かなのかも知れない。

しかし実は「グループを作る」ということ自体は、ただただ周囲とコミュニケーションをし周囲と同調をする傾向がある程度あれば簡単に起こる現象だったのです。

しかもそこに「本質的価値」など何もなく、単に「周囲は何と言っているか」だけで全体の意見が決まっていく。

もちろんこれだけで人間の意見形成やグループ形成を語ることは出来ないでしょう。しかしこんな簡単にグループの形成が、しかもある種盲目に起こるのなら、単に昔いじめられたのはもう

運が悪かった

以外の何物でもないな、と「すとん」と腑に落ちた気分になりました。

もちろんそれが分かったからといって、過去にした辛い思いは消えないし、肌を出すことにはいまだに抵抗があるし、顔の大きさはコンプレックスだけども、なんだか過去の出来ことに折り合いをつけられるような気がしました。

高校生の時分は、物理や数学は血の通っていない、現実や人間の複雑さを見ていない学問だと思っていました。

まぁ「まずは簡単なものを理解する」ところから始めるのが物理学の鉄則なので、この感覚は間違ってはいないのですが、枝葉を削ぎ落として簡略化を重ねていった先にこそ見えてくるものがあって、それに救われることもあるのだなぁ、としみじみ思った大学3年生の冬でした。

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