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オンラインで集められる教材ークニモチユリさんへの返信ー

ワークショップに参加してくださったクニモチユリさんから、感想を頂いた。ワークショップでの会話では、ヒガシジがクニモチさんの活動をリサーチできいなかったのも原因で会話が噛み合わなかったが、テキストでのやりとりで噛み合わなかったこと自体を確認できた。

1、クニモチユリさんについて

■思い立ったが吉日というイベント
クニモチさんが京都の作家さんたちと実施したオンラインイベント。
オンラインとは?以上に語られているとおもうので、後日別にまとめたいとおもいました。

2、応答について

■ヒガシジ→クニモチさん

”みた感”という不思議なことばについて、昨晩よくかんがえてました。実際に内容を確認して理解したということでなくて、体験としてみたということが別にあることを示唆している、と解釈しました。
そういう意味では、クニモチさんの意図とは別のところで回答をしてしまったなと思いました。しかし、体験だけで展示みた感というを語れるかどうかもわからないでいます。

■クニモチさん→ヒガシジ

仰られている通り、昨日出てきた「見た感」という言葉は体感・実感の方に近い意味で使いました。

オンラインでの展示では作品の情報量が均等になってしまう側面があると思っていて、それらを「鑑賞した」と実感してしまえるというのはどういうことなのだろうと考えていました。
現場で見る展示でも「見た」実感があまりない時がありますが、WSのお話からそれは鑑賞者のコンディションに委ねられる部分が大きかったから起こるのかなと考えるようになりました。

ただ画面を眺めるのではなく、音声やなにかしらの動作を伴わせることで「見た」実感が得られているのかなと思っていて、昨日はそれに関して東地さんがどのように考えてられるのかお聞きしようとしていました。

■ヒガシジ→クニモチさん
クニモチさんのコメントに応答するために、いくつか確認をさせて頂きたいです。

確認1 
みた感=「鑑賞した」と実感すること=「見た」実感 でよいですか?

ヒガシジのことばとクニモチさんの言葉を整理するための質問です。

確認2 
作品の情報量が均等になってしまうとは?

実際に作品に凹凸がある場合でも、一様に感じるということでしょうか?

確認3 
画面を眺めること と 画面を見ることは 違いますか?
鑑賞者のコンディションに委ねられる部分 についての質問です。

確認4(というか応答っぽいですね。。)
「見た」実感の条件の1つ = 
音声やなにかしらの動作を伴わせるとは?
ここは、いろいろ言いたいことはあるんですが、動作というよりは、動きだとおもいます。もう少し言うと相対的に変化が確認できることでないでしょうか?

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