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こっそりね、ズルするのがいちばん。

年始、よく働いた。年末には、新年の自分が何にでもなれる無敵の存在のように感じられたけれど実際そんなことはなく、むしろやる気が起こらなかったり、物欲だけが増したりした。税金や光熱費の支払いと追いかけっこするためだけに働いているわけではないので、買った。今後の自分が必ず、大切にしていってくれる服と皿。

ここのところ、意図的に、自覚的に優しくなりたいと、よく考えている。人生を、優しくなることに捧げられるだろうか。何をするにも、動機は優しくなることがいい〜(藤井風さんの曲にこんな歌詞があった)。
持って生まれた優しさではなく、雪の中の山小屋に住むひとの、
自然の厳しさを知るが故の、素朴でつよいものがよい。
本当にキツいとき、花を飾りましょうとか、お気に入りの入浴剤を入れたお湯に浸かりましょうとか、ひらがなでおつかれさまと言ってみるとか、ご自愛とか、間違ってもそんな言葉で片付けることのないような(これらの方法はとてもよく効くのを知っているけれど、いかんせん、どん底からは手が届かないのだ)。
なんでこんなことを思うのだろう。
そうでもしないと、あのときのあの苦しみも、あの悲しみも、感じた甲斐がないじゃないかと思うのだ。優しくなるチャンスがたくさんあるのに、都合がよくて、薄情で、すぐに忘れてしまう自分だから。これをする、これはしない、そういうことにできるだけ自覚的であろう。
考えすぎ、と言われるのならむしろ、考えて考えて考え尽くして、
考えることをしない人には届かないような、つよく、優しい人になりたい。
わたしはずっと証明しなければならないような気がしている。なぜこんな選択をしているのか、言いたくもない言葉を尽くして、誰か(自分かもしれない)を納得させる必要があるように感じていた。でも最近はどうでも良くなった。いまの興味は、わたしが大切にしたいものは軽んじられるようなものではないはずだということ、できることが少ないわたしでも、しあわせになれるはずだということである。そしてわたしの大好きな、心優しい人たちが、生きづらさなんてものを感じることなく、しあわせになれる世界であってほしいと思うのである。
何を言っているかわからなければ、そのままで、伝わらないままでよいのです。
でも、なんでかわからないけど、いつでも誰でも、どんなことでも連絡してきてね、と思っている。必要なときに思い出される存在になりたいものである。

と、ここまでは2024年のテーマ・ガツガツバージョンである。
最近糸井重里さんの『MOTHER』というゲームを身近に感じる機会があった。
その中のママという登場人物のセリフで、こんなものがあった。
「なにもいわなくても いいの。ママは わかってるつもりよ。」
まったくゲームをやったことはないけれど、この一言にママが詰まりすぎているような気がした。ついママのような視点で自分に言葉をかけたくなる。
「意図的に、とか、考え尽くすとか、
 そんなに肩に力を入れなくていいの。
 そんなに一生懸命じゃなくていいの。
 みんな、ほんとうはこっそりズルしてるのよ。」

つよく優しくなりたい自分と、ママの目が共存している。これでいいと思う。2024年、ママの目を養いながら、たまに思い出したように意図的に優しくなるための修行をして、本を読んで、勉強して、もっともっとことばに触れて、この世界にこっそりと、もう少し間借りしていたい所存。うつくしいものを見たいものだなあ〜。

おわり

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