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死の臨場感〜「パニックでは死なない」だけで我々は「絶対的な安心」を得られるのか〜

#今日の短歌  「目の前の現(うつつ)はかくて消えゆくか眩暈(めまい)している一瞬の闇」 永麗

パニック障害を発症してから、その恐怖を敢えて歌にすることしばしばである。
多分、これが記念すべき第一作目の「パニック短歌」だ。
「死ぬかもしれない」と思うほどの恐怖。それがパニック障害を患うものの最大の悩みだ。しかし、じきに学ぶのである。何度かの発作を経て「死ぬわけではなさそうだ」ということを。先輩や医者から「パニックでは死なないから大丈夫。」と言ってもらったりしながら。

そう。我々の大半はそんなこと百も承知なのだ。それが分かっていても、怖いものは怖い。恐怖そのものに怯え始めるのだから、滑稽といえば滑稽である。
その恐怖は私の中にしかない。脳内の幽霊に怯える子どものようなものだ。

だがその恐怖が幽霊よりも怖いのは、動悸やめまい、息苦しさ、手汗、といった、やたらとリアルな体感を伴っているという点である。
「死ぬときってこういう感じなのかな」とか、「閉じ込められて死ぬのってこんな風に怖いんだろうな」とか、やはり「死」というものに対する臨場感を感じずにはいられない。

「降りられない電車」「出口のないトンネル」そんなものはないのだが、予期不安をこじらせていくと、事故や災害によって、万が一の僅かな不運の可能性にわざわざ照準を合わせに行って、わざわざ怯えるのである。

ここからは、私の大胆な仮説なのであるが、
「あの日」以来、パニック患者は増えたのではないか。
かく言う私も、「あの日」以降に発症している。

2011年3月11日、日常が一瞬で破壊され、街が一日にして消える、どんなに人間が知恵を振り絞って防ごうとしても防げない「天災」が起きたその日。大自然の猛威を目の当たりにし、我々が創り上げてきた「安全神話」が足元から崩れた。映画や漫画だけの世界でしかなかった「大量死」が、いつどこに現れるか分からない、底知れぬ不安と恐怖。

私達がバブルに踊り、あるいは引きこもり、時にネットで炎上したりして遊んでいられたのは、「絶対的な安心安全」が根底にあったからである。しかしその安心安全というものが何の根拠もないものだったことに私たちは気づいてしまった。

さらに2020年以降の新型コロナウィルスの感染拡大は、どんなに堅固な建物に住んでいても、高台に住んでいても、目に見えないところから忍び寄る脅威の存在があることを私達に否応なく知らしめた。

結局のところ、「絶対に安心安全」の場所など地球上にはどこにもないのである。

私達にできることは、
①あきらめる(明らめる)
②信じる
③委ねる

この3つに尽きるのではないか。最近この3つが、病気、人間関係、仕事、教育、自己実現、などなど、あらゆることに共通して大切なのではないかと気づき始めている。
これらについては、ひとつづつ、自分自身に言い聞かせながらここに書き留めていこうと思う。

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