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【I♥LOVE福岡】柳川と共に歩む立花家【クリエイターフェス便乗企画】

🌟この記事は、noteさんのクリエイターフェスにかこつけて、大好きな福岡の魅力について語りに語っていく連載シリーズでございます。

最初の記事(https://note.com/yeku/n/n8a54d76bbf3f


柳川シリーズ第3弾(多分最終回)として、立花家の歴史について触れようと思います💡


立花家といえば柳川、柳川といえば立花家。立花家の400年に渡る歴史は、柳川の流れとともに連綿と続いている。

立花家の歴史は、豊後守護大友貞宗の三男貞載が筑前国立花山城に拠って立花と称したことから始まる。その後、立花宗茂の代に豊臣秀吉に仕え、筑後国柳川を与えられた。江戸時代にも柳川藩主家として続き、明治維新後には華族の伯爵家に列した。

かの戦国武将、立花宗茂が柳川城主となったのは、今からおよそ400年前のことだ。

宗茂は九州の大名大友家の一家臣だったが、秀吉に武勇武功を認められ大名に取り立てられた。彼は優れた為政者でもあり、柳川の人々からの信頼も厚かったようだ。しかし、関ヶ原の戦いで西軍側についたため、領地を追われることとなった。

その後宗茂はしばし不遇な時を過ごすが、豊臣時代の武功やその人柄を徳川幕府に認められ、柳川藩主として復活を果たした。関ヶ原の戦い以降、領地を追われた後に旧領を回復することのできた大名は、立花宗茂ただひとりだ。

この宗茂について語るとき、私はどうしても妻である「誾千代姫ぎんちよひめ」を思い出す。

この本は御花の物販で平積みされていた。

女性は男性の付属品であるという時代が長かったため、史実で戦う女性を見ることは少ないのだが、宗茂の妻である誾千代姫は違う。彼女はひょんなことから、なんと7歳の頃より城督(城の管理者)で、実質的に跡取りだった。だからか、知性があり武勇に優れるなんともカッコいい女性なのである。

筑前立花城の城督・ぎん千代姫が婿に迎えたのは、後の名将・立花宗茂。島津、大友、龍造寺――三つ巴の闘いが繰り広げられる九州で、大友を支える立花家も戦いに明け暮れる。ぎん千代自ら鉄炮隊を率いて闘うなか、父・道雪に続き、宗茂の実父・高橋紹運も命を落とし……。豊臣秀吉の天下、そして関ヶ原の戦いへ。時代の荒波に翻弄される夫を支えつつ、摩利支天の如く、凜々しく、ひたむきに生き、加藤清正にも一目置かれたぎん千代姫の生涯を活き活きと描いた力作長編。『利休にたずねよ』の山本兼一が遺した戦国小説のなかでは珍しく、女性が主人公。解説は作家の植松三十里氏。

Amazonの紹介文より

江戸時代中期5代藩主立花貞俶は、享保の大飢饉の際、幕府に給金を求めるなど柳川の人々の暮らしに寄り添う優れた藩主だった。貞俶の治世に、側室やその子息の住まいが城の南西部の土地に移された。御花畠と呼ばれていたその場所に柳川城の二の丸機能を移してきた御屋敷は、柳川の人々から「御花」の愛称で呼ばれ親しまれている。


明治時代、武士の世が終わると立花家は伯爵家になった。立花家14代当主立花寛治が現在の「御花」の基礎となる邸宅を整備し、寛治は東京で学んだ農学の知識を活かし、筑後地方の農業振興のために私財で中山農事試験場をつくった。

この洋風のすてきな御屋敷は見学が可能なので、私も見てきたことがある。洋館ミステリーに出てきそうななんとも風情のある御屋敷だったので、柳川を訪れることがあれば、ぜひ行ってみてほしい。

このような長い歴史を持つ立花家だが、その歴史はまだ途中だ。現在もこの掘割に囲まれた全敷地7,000坪が「立花氏庭園」の名称で国の名勝に指定されており、「松濤園」「西洋館」「大広間」「御居間」「家政局(お役間)」「門番詰め所」といった、約100年ほど前の伯爵邸の姿をそのままに留める近代和風建築は、日本に現存する文化財として、今や大変稀有な存在になっている。

松濤園

以上が柳川の立花家の歴史についてだ。立花家の長い歴史とその中で築かれた文化を感じていただけると嬉しい。

また、立花家がこれからも柳川と共に歴史を紡いでいくことを願っている。

参考:
御花(https://ohana.co.jp/
Wikipedia(https://ja.wikipedia.org/wiki/立花氏


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