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行き過ぎた思考は自傷行為と変わらない

どうも、ニートです。ひとりぼっちの時間が多くて、程よく卑屈になってきて、怠惰に過ごす時間も増えてきたので、思考が脳内循環し始めました。そろそろ吐き時かなと思って、久しぶりに書きます。

元々思考することが好きで、思えば小さい頃からずっと考えてきた。思春期・青年期は脳みそがパンクして、体が動かなくなるまで考えて考えて、毎日泣いて苦しくってのたうち回って生きてきた。それが、22歳になって青年期も終わりを迎えたのか、家族関係へのことでひとつ片が付いたのか、自己の統合が行われてすっかりシンプルになってしまった。

個人的には、思い悩むことにこそ、考えることこそ生きることだと思っていて、人間の責務だと思っているところがあった。考えもなしに物事を決めたり、判断したり、行動すると大体クソつまらない古の慣習に囚われたままその他大勢として数の暴力の一員になるか、もしくは声のデカイ自己の利益しか考えないやつの思惑通りに動く駒のひとつになるから。

だから、22歳以降は、自分に対して少しつまんなくなってしまったなって思ってた。考えて、悩んで、苦しんで、吐き出して、読んで、聞いて、考えて、苦しんで。それで吐き出した文章が大好きだったから、今の自分が平和ボケしてしまったように感じていた。

あんなに忘れたくなかった幼少期の気持ちも、親への気持ちも、この世への恨みも、今はもうほとんど鮮明に思い出せない。脳内に複数いた過去の自分も、すっかり統合されてしまった。思考はシンプルで、考えても苦しくない。自責か他責かで激しく揺れ動いて、精神的に自分を殺し続けていたあの日々も、あんまり思い出せない。

今回、久しぶりに就職先でメンタルも身体もダメージを受けたけど、それも1ヶ月でそこそこ回復してしまった。良いことなんだけど、もう働いていた頃のあの苦しみは思い出せない。それくらい、傷の修復スピードも上がってる。もう傷つきたくない、あんな思いはしたくない、人は信用ならない、と慎重さと不信感だけは一丁前にレベル上げしたけれど、それだけ。いい経験したな、くらいに思ってる。

ここ2週間くらい、急に怠惰になった。面接の予定もあっても1つだったし、資格の勉強も気が向いた時だけ。昼夜逆転して、夜中の二、三時に寝て、昼前くらいに起きる。クーラーの効いた部屋でひたすらベッドで過ごし、気が向いたらご飯を食べる。基本、漫画か本読んで、アニメかドラマか映画を見て、スマホゲームして、YouTube見て、時々歌って、それだけ。

無力感が強くて、ただただ怠惰に過ごす自分が嫌だったけど、「これもニートの特権か!」と開き直るアホさもある。なんなら、ドラマや漫画に出てくる物語に登場しているおもろいやつって、大体無職か無職経験あるよなとか、バイアスかかった思考になる。これまでずっとレールから外れ続け、乗ろうとしたところで弾き飛ばされてきたもんだから、もう普通の人生なんて無理か。そもそも親族でまともに働いて生きてんの数人しかいないし。みたいな卑屈でクソみたいな思考にもなってる。でもそんな自分も好き。まともに働いてる自分よりも好き。

無職で鬱の元漫画家が、大ヒット漫画家に世話される漫画が好きで、久しぶりに読み返した。鬱の元漫画家は思考が深く、自分の思考に殺され続けてる人。それを読んで気づいたんだけど、たぶんわたしって人間の不完全な部分が好きなんだと思う。不完全というか、バグというか。考えすぎると人って病むし、自分を殺しにかかるんだよね。

でも、考えないと物事は意味をなさないし、思考放棄は人間でいる意味ないって思っちゃうんだよね。だって、選ぶだけなら、働くだけなら、学ぶだけなら機械で良くない?食べるだけなら、日に当たるだけなら、楽しいことだけするなら動物で良くない?人間って思考するから、そのデッカイ脳みそが主体だから、人間なんでしょ?

ただ、考える人って大体病んでんのよ。病んでるし、苦しんでるし、自他の存在に怯えてるところある。人間や、この世の全てさえも恐ろしく感じることだってある。自己の存在が不確定になることだってある。人間全体がそうなると全滅の危機さえある。だからこそ、考える人の割合は世の中的に少ないんだろうけど。

と、ここまで考えて、あ〜全然わたしってば血反吐を吐くような思いをしてないだけで、考えてるじゃ〜んって思いました。たぶん、かつて思考していた時期があまりのしんどくて、苦しい状態が標準になってる説ある。バグってんね。

こんなにダラダラしてさ、ひたすら考えてさ、ちょくちょく心臓痛くなってさ、なんでか足の親指の先もきゅっとしてさ。無職でもなんでも生きていけるんだよ。ていうか、そういう自分を肯定したいんだと思う。

幼少期から良い子で過ごしてきて、今も社会に出ると他者の期待に沿うようにひたすら相手の表情や言動を見て受け取って咀嚼して行動して反省してを繰り返す癖が抜けない。真面目で勤勉、人当たりがよくコミュニケーション能力が高い。よく笑い、愛嬌があり、物事ははっきり言う素直な性格。どれもわたしだけど、"そう魅せてるわたし"こそが本当のわたしで。怠惰で気分屋、我が強い。自分の意見を言わなきゃ気が済まないし、語気は強い。他者と関わるためにそれを上手く翻訳してるだけなんよね。

わたし、おばあちゃんといる時も本当のわたしだけど、母といる時にだけ見せる顔もあるなって思った。気が強くて、言葉も強くて、攻撃性のある言葉を放ってしまうのは、母相手のときだ。もうしないけど。5年前、母と暮らしていた時はそうだった。

そして、わたしのその攻撃性はあの環境にいたからだけでは無い。いつでもわたしの中にいて、色んな言動に翻訳されて、そこにいる。自分が攻撃性の高い人だとわかってる。そのぶん、他者の攻撃性にも敏感だから、上手く隠せてるであろう相手の攻撃性に誰よりも早く気づいて、しっかり受けていたりする。受け流すことが出来ない。受けて、そのままパンチくらってる。アホすぎる。

別にわたしに限った話じゃない。でも、気づかず生きていける人の方が多いことも知ってる。人間の攻撃性も、思考能力も、全部繋がってる。全部同じ話。

わたしは、考える人が好きだ。その攻撃性を持って、自覚して、恐れて、もがいて生きてる人が好きだ。

本当のわたしは、わたししか知らない。久しぶりに、この感覚になった。わたしを知っている人はたくさんいる。わたしが自覚していない部分を知ってる人もたくさんいる。けど、他人から見たわたしはどうせ他人のフィルターを通してみたわたしで、わたし自身では無い。逆も然り。

人は相手を見たいように見る。世界も、見たいように見る。その時の気持ちや環境次第で、同じ物事が起きても全く別の捉え方をする。同じ人間に対してもそう。相手の信じたい部分だけを見て、嫌になれば信じていたものと違ったと憤る。つくづく思う、傲慢な生き物だ。自分含め。

だから、自分が信じられなくなると、途端に世界が崩れるんだ。上手く生きていけなくなるんだ。他者も信じられないと、なかなか難しい。だって自分は、他者を通して作られるから。人間ひとりだけじゃ、社会性も思考も学習もなにも出来ない。ただの生き物だ。今を生きてる自分も、毎日なんらかの他者から影響を受けて、それを自分のフィルター通して咀嚼して生きてるんだから。

うわあ、久しぶりに語ったらめっちゃ長くなったな。こういう思考大好きなんだよなあ。誰かと語りたい。さっきの漫画もそうだけど、漫画家同士でめちゃくちゃ語る場面が多くて好きなんだよな。わたしも誰かと、深い思考を持つ誰かと語りたい。できれば自分フィルター強めの人と。


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