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宮本234.から学ぶ生き方

タイトル連番がムサシ、ということで、本日は宮本武蔵から引用しつつ、そのいきざまのかっこよさをお伝えしたいと思います。


思い出せばあれは小学生の時。

市川海老蔵(当時は市川新之助)を主演として大河ドラマ宮本武蔵が始まりました。
侍として生きる男のかっこよさに小野少年は痺れ、口を開けながら目をひん剥いてテレビにかじりついたものでした。

序盤にこういうシーンがあります。まだ武蔵が名を新免武蔵(しんめんたけぞう)と名乗っていた頃。生まれた山の木々に竹の切れ端を紐で吊るし、森の中をかけながらそれをカンカンと木刀か何かで打つという修行をしていました。

それをみた小野少年はこれだと思い、自宅の庭(結構広くて木がたくさんある)で祖父母の農業用のビニール紐で木の棒を木から吊るし、昔会津若松に家族旅行で行った際に買ってもらった木刀で叩きまくりました。

自分は侍として生きていくと決めました。父が剣道していたし自分にも素養があろう、と。

そんな春先のある朝、カンカンと小気味よく音を鳴らし、ふうと一息ついていると、「おっ」と声をかけられます。「なにやつ!」とすぐにそばにおいた木刀に手をかけると出勤する小学校の校長先生がこちらを見ています。
「新免武蔵ですね」
と言われ、食えぬ男よ、と思いました。深々と頭を下げ朝の挨拶。弛まぬ自己鍛錬、礼儀。完全に侍です。

小学校の卒業アルバムに書かれている将来の夢は、「侍」の一文字。

習い事の水泳や部活の野球が忙しくなったりして侍の道からは遠かったものの未だ時折当時身に付けた侍の心が顔を覗かせる時があります。
食事・睡眠以外には割と自分には厳し目に生きてきています。

宮本武蔵/吉川英治
こちらについて、本日は7000字のボリュームで話していきます。

大河ドラマ宮本武蔵の原作は吉川先生版宮本武蔵。

宮本武蔵レベルになると本当にたくさんの説があります。
ちなみに余談として、講談師神田松之丞が話す宮本武蔵が「ミッドナイト寄席」で観れます(Amazon prime videoにあります)。気になる方はぜひ。そこに出てくるのは最高にファンタジーな宮本武蔵。

小説版に手を出したのは25歳を超えてからでした。購入して3年間本棚に眠らせて、ある時に読み始めたところみるみる虜になり虜になってしまったのでした。
その頃音楽とどのようにこれから向き合っていくか真剣に悩んでいた頃でした。

小説文庫本1巻のはしがきにて吉川先生はこう書き出しています。

“なやみ、もがき、猛り泣いて、かかる人間宿命を、一個の剣に具象し、その修羅道から救われるべき「道」をさがし求めた生命の記録がかれであったのだ”

そう。こういうのが欲しかったんです。
やはり我々男児、歩く道は修羅、目から流すは仇敵の血、振り返れば屍の山!

そしてこうとも書いています。

”もとより武蔵の剣は殺でなく、人生呪詛でもない。
護りであり、愛の剣である。自他の生命のうえに、きびしい道徳の指標をおき、人間宿命の解脱をはかった、哲人の道でもある。”

これは、もうまさにポップミュージックです。
自分が求めているのは、修羅の道の先に咲く真紅の薔薇である!
探していた音楽が見つかったと思いました。

宮本武蔵を読めば、かっこいい男に、かっこいいミュージシャンに、ベンジーに、チバユウスケに、豊川悦司に、高倉健になれると確信しました。

それではついに本編を覗いてみようではないか。

我々は長い夜を超えてきた。
言葉にならない思いを抱えてきた。
その鬱屈した思いは今、ああ、雲が切れる。
あの切れ間から現れた太陽に・・・。


「そうだ、そうだ。それくらい怒ってみなければ、ほんとの生命力も、人間の味も、出ては来ぬ。近頃の人間は、怒らぬことをもって知識人であるとしたり、人格の奥行きと見せかけたりしているが、そんな老成ぶった振舞を、若い奴らが真似るに至っては言語道断じゃ、若い頃は、怒らにゃいかん。もッと怒れ、もッと怒れ」


あああ〜〜!
かっこいい!

これは序盤で武蔵に対して向けられた沢庵和尚の言葉。
武蔵に沢庵ありき。
人生において出会いは何にとっても変えられぬ財産です。何につけてもおやつはカールであるように。
武蔵ほど人からの影響を見事に昇華した偉人はいないだろうというくらい、出会う人間の徳の高さよ!
この小説が書かれているのは昭和初期。
まあ、今も昔もずっと「今の若いもんは」ってなもんなんでしょう。
それにしても、この生命力という言葉。
強い!みなぎってる!幸福の黄色いハンカチで刑務所から出てきた高倉健が久しぶりにビールを飲むシーンを思い出さずにはいられないッ!
まあまあ、序盤ですから、落ち着いていきましょうや。


沢庵は白鷺城に3年間武蔵を押し込み、本を読ませます。
そして3年目の春

「礼?…ははは、だいぶ人間らしい言葉づかいを覚えたな。さあ、今日は出よう、光明を抱いて、世間へ、人間のなかへ」

こちらも沢庵和尚の言葉〜〜〜!!
カッコよすぎ〜〜〜!!
濡れる〜〜〜!!

ここは武蔵が”たけぞう”から”むさし”に変わるタイミングです。
沢庵和尚は武蔵にとにかく俗世から離れ、書を読み学べ、といいます。
武蔵は文字を覚え、そして監禁された3年間、本を読みまくることによって、言葉遣い、人間性までも変わります(ここまじでウケます)。

本来剥き出しの野性でしかなかった部分が、読書によって理性を獲得する過程です。
芦田愛菜ちゃんはこれを監禁されずに忙しいスケジュールの中こなしました。
なので芦田愛菜ちゃんはもうすでに宮本武蔵を超えているわけです。

さて、武蔵はついに宮本武蔵という名を授けられ、獣から人間になったのです。ここからがお話の始まり。


武蔵は新たな名前を背に担いで長い旅に出ます。

その際の沢庵和尚への武蔵との会話を引きましょう。

「お別れ申します。…生あれば、又いつかは」
「む。こちらも、ゆく雲、流るる水。…会えたら会おう」

ぎゃあ〜〜〜!!
かっこいい〜〜〜!!
卒業式で言いたい〜〜〜!!
ゆく雲、流るる水〜〜〜!!

しかも会えたら、というのがまたさっぱりしててかっこいい〜〜〜!!

ちなみに小生、2020年度のスガシカオさんのツアーオープニングアクトに選んでいただいたのですが、
その応募の際、プロフィール文章の最後に、
「目指すはゆく雲、流るる水。」
と書きました(照)
これで受かったと正直確信しています。

武蔵の旅路は続きます。
本阿弥光悦さんというお茶の達人に出会います。
そして武蔵は光悦さんのたたずまい、人間としてのオーラにただならぬものを感じ、剣をかわすことだけが剣の道を極めることにあらず、どの道でも極めたものからは得られるものが多い、と考えてきた頃です。

偉いですよね。
この点やはり自己と向き合ってきたことによる効果が発揮されてきた証拠だと思います。
沢庵様様です。

内省による鍛錬は一生ものですからね。
そして、得ているものがその次を目指せる、とてもシビアな世界だと思っています。

前置きが長くなりました。
では光悦宅にてお茶をいただく際のありがたいお話を一挙3連続でご覧ください。

「茶に知るの、知らぬのという、智恵がましい賢しらごとはないものぞよ。武骨者なら武骨者らしゅう飲んだら良いに」
「作法が茶事ではない、作法は心がまえ。ーあなたのなさる剣もそうではありませぬか」
「心がまえに肩を凝らしては、せっかくの茶味が損じまする。剣ならば、体ばかり固うなって、心と刀の円通というものを失うでござりましょうが」

ゲロゲロゲロ〜〜〜!!
目からウロコ〜〜〜!!

達人からこのように言われては!
もう「まじでうめえ!」「落ち着きますわ〜〜〜」くらいの感じでいいんですね!
僕もよく「料理を味わっていない」「感じる舌がない」と言われます。
耳が痛いですね。この前も「パクチーが」と言ったら「入ってない」と言われました〜〜〜!あちゃちゃ〜〜〜!
全て空っぽにして「あ〜最高!」というように心がけ致します。
光悦先生、ありがとうございます。改めて心に深く留めておきます。

人は見栄を張りたがるもの。
自分の領分から無理に背伸びしようとせず、あるがままの自分が感じたことを素直に伝えることの難しさを感じます。

そして「あるがまま」という言葉は、実際に武蔵の旅路で探している剣の道の一つでもあります。
物語は徐々に進み、後半へと向かうに連れて、武蔵は感じ方も表現の仕方も成長していきます。

「あれになろう、これに成ろうと焦心るより、富士のように、黙って、自分を動かないものに作りあげろ。世間へ媚びずに、世間から仰がれるようになれば、自然と自分の値打うちは世の人が極めてくれる」

これはもう全人類に必要な言葉だと思いませんか?
生きているうちに何度「ああなれたら」と思ったことか、そしてこれからもきっと思い続けることでしょう。
なかなか雲のように、水のように生きることはできないのです。
自分を守ることが難しいのは自分の良さを客観視しづらいという点が多いにあります。
ですが、自分の曲が見えないところで聴いてもらえてる、求めてもらえている、そして願わくば求められている、ということを想像して、自分は自分のまま、進んでいくしかないのです。
それすなわち剣の道と同義と捉えます。

「無為の殻」という非常にかっこ良すぎるタイトルの章があります。

”時には、さもしい、浅ましい、餓鬼のように煩悩の中に。又時には、澄み切った、峰の月のように、孤高を独り楽しむほど潔い気もちになったり-朝に夕に、濁っては澄み、澄んでは濁り、彼の心は、その若い血は、余りに多情であり、又、躁がし過ぎた。”

若い武蔵です。色々とあります。思いを寄せるものの剣の道をゆく自分にその余暇はないと、何度も同郷で自分を追いかけてくれるお通を退けます。
たくさんのことを学び、経験して、その分だけ強くなっても、雑念は尽きません。
毎日毎時毎分毎秒、周囲と、己と戦っている武蔵も人間です。
やはり考え方が身についてきても、律する力を身に付けたと思っても、所詮は若者。煩悩に躍らされる夜も多いことでしょう。
自分も音楽に向き合います。
自分の作り上げたものに素晴らしく酔える夜もあれば、自分の才能のなさを悲嘆して積み重ねたのは紙のゴミの山、という日々を長く過ごしてきました。
なんだか泣けてきました…。

「遅くはない。今からでも、自分を鍛え直して、世に出ればいいではないか。-自分で自分を、だめだと見限ったら、もう人生はそれまでのものだ」
と、励ましたが-しかし、と付け加えて、
「とはいえ、かくいう武蔵も、実は今、何かまったく、壁のような行止りと、ともすれば、おれは駄目かな?-と疑いたいような、虚無に囚われて、何をする気も失せているのだ。そういう無為の病には自分は三年に一度か、二年に一度ずつは、きっと罹るのだが、その時、駄目と思う自分を鞭打って励まし、無為の殻を蹴やぶって、殻から出ると、又新しい行くてが展けてくる。そして驀しぐらに一つの道を突き進む。-すると又、三年目か四年目に、行止りの壁に突き当たって、無為の病にかかってしまう。…」

これな〜〜〜!!!!
まじでこれよ、ほんまに。
たまんねェ〜〜〜!!!!

さすが武蔵、自分なんか、3ヶ月に一遍以上はこのように思うね。
そう、自分との戦いをここまでしてきたではないか。
永遠に越えることのできない夜を、それでも手探りで。

お分かり頂けたでしょうか?
これは武蔵が発している言葉なんです。
同郷の幼なじみでずる賢くて大法螺吹きの又八(通称:またやん)に対してかけている言葉です。
過去のたくさんのしくじりの結果、武蔵と逆行する人生を歩いているまたやん。武蔵もかなりまたやんには親族ぐるみで手を焼いてきました。それなのに武蔵はまたやんに、今からでもやり直せよ、と声をかけます。
この成長たるや。
武蔵と又八のそれぞれの全く異なる生き様も、この物語の読みどころであります。
とにかく自分を高めるために日々努力する武蔵と、うまく生きていこうとして破滅して、日に日に名声を轟かせる武蔵と自分を比較する又八。
皆さんはどちらに共感するでしょうか?

さあ、ついに終盤です。

誰もが知る巌流島での佐々木小次郎との一戦の直前、武蔵は泊まっている宿でなんと剣も持たず、絵を描くためにひたすら白紙の紙と対峙します。

"白い紙は、無の天地と見ることができる。一筆の落墨は、たちまち、無中に有を生じる。雨を呼ぶことも、風を起すことも自在である。そしてそこに、筆を把った者の心が永遠に画として遺る。心に邪があれば邪が-心に堕気が-匠気があれば又匠気のあとが蔽い隠しようもなく遺る。
人の肉体は消えても墨は消えない。紙に宿した心の象はいつまで呼吸してゆくやら計りがたい。"

ああ、悟っちゃった…。
ついにここまできたか武蔵…と唸らざるを得ない描写です。
試合前の極限の緊張の中武蔵は自分自身とここでも徹底的に向き合います。
そして武蔵は小次郎との人生をかけた大一番を迎えます。

これで大まかなストーリーとしては終わります。
この小説の本当に締めくくり。
あまりに見事な五・七のリズムで書かれた3文を最後にぜひ読んでいただきたい。

”波騒は世の常である。波にまかせて、泳ぎ上手に、雑魚は歌い雑魚は踊る。けれど、誰か知ろう、百尺下の水の心を。水のふかさを。”

初めて読んだ時震えました。
あまりの美しさに。
まさに、お見事!
でも、この部分の意味は実際いまいちよく分からなくて、
ただ「ふかいな〜〜〜」みたいな感じで捉えたのです。
「ふかいな〜〜〜」って言葉はめっちゃくちゃ便利なものだ・・・。
便利なものは、恐ろしい・・・。

わかったような気持ちになるだけで何もわかっていないのである。
それはここまでの旅を無駄なものにしてしまうだろう。
読めない美しい文章に出会った時、読書してるぜ〜〜〜!
という気持ちになります。
その時にとらざるを得ない迂回は、
人生や表現の道にも通じるもの。
by武蔵

さて、脱線しましたので、話を戻しまして最後はこの文についてしっかり掘り下げたい。

”波騒は世の常である。”
「なみざい」と読み仮名がふってあるのだが、先生・・・広辞苑にも載っておりません。。。
電子辞書にもないし。
似た言葉で言えば潮騒でしょうか。浜に打ち寄せる波の音・・・。
個人的に感じた大まかなイメージは「大衆の喜ぶような注目を集める波」かなあ。
ゴシップは尽きないように、話題はいつも大小の波で常に打ち寄せているから・・・。

ひとまず先に進めます。
次の”波にまかせて、泳ぎ上手に、雑魚は歌い雑魚は踊る。”の中で、一番首を傾げるのは雑魚という言葉です。
なんか、雑魚って、ひどくない?笑
と、思い、広辞苑で引いてみました。

雑魚
①種々入り混じった小魚。小さい魚。こざかな。
②転じて、大物に対する小物

よくアニメや漫画で雑魚と使われるので、そのイメージが自分には強いわけです。
きちんと意味を知らないと、間違ったイメージのまま身につけてしまうものですね。
そういうものがやがて偏見に変わり、気づかぬ間に差別となるのでしょう。
by武蔵

上で言えば①の意味でしょう。これは大衆や民衆などあまねく生命を示すと思われます。

”けれど、誰か知ろう、百尺下の水の心を。水のふかさを。”
百尺ってのは約30mだそうです。ビルで言うと大体10階程度とのこと。
海で言えば相当ですな。
百尺下の水のこころとは…。
その深さが通常では知り得ないことを示すのは想像できます。
誰も達しないところでしょうか。
ネットで調べたところ、この締めくくりの文章は多くの経営者のような人たちが胸に留めていたりするそうでもあります。
中でも、この百尺下の水のこころとは「おおいなるもの」という解釈が「おおこれが一番しっくりくる!」となりました。

つまりまとめると、
大衆が喜ぶような話題の波は尽きず常にあるもの。大抵の人はその波の中で生きているが、波の深いところには変わらない大いなる存在があって、そのことには気づかない。
武蔵は、波ではなくその深さを求めたのだというところでしょうか。
自分も、そうありたいものです。
情報が溢れているこのご時世、目先のことに踊らされず、しっかりとした芯をこさえて、波風に揺れない強い眼差しで全ての事象を捉えていきたい。
これを機に深く胸に刻みます。

以上、吉川英治版宮本武蔵、全8巻のうち、個人的に心にグッとくる名文を引用してきました。
かっこよさ、伝わったでしょうか笑

この小説は、朝日新聞で1935年から1939年まで続いたそうです。
当時の担当編集さんは大変だったそうです。
先生が原稿をあげないので、ギリギリの分を飛行機便で送ってもらったり、自宅まで直接回収にいったり。

また激動の時代。言論統制や今の地方新聞の勢力図の原型となる一県一紙の政策が国によって強引に敷かれたようです。そんな中で最後まで書き上げるには想像もつかない苦労があったことでしょう。

誰もが武蔵の行く末に手に汗握って読んだと聞きます。
新聞購読率も今とは異なるでしょう。
残念ながら比較はここではしませんが、気になるところです。
ああ〜ここまで書いたら満足した!

自分は表現の道に進みましたが、生きる中ですべてがポイントであり気づきであると考えます。
すべては言葉になりえ、なければつくり、全身全霊をもって、肌で、周囲の素粒子たちを集めて表現に変えたいと思って今は生きています。

個人的には芦田愛菜ちゃんが五輪の書を書き上げるその日まで、生きたいと切に願います。

長文でしたがお付き合いいただきありがとうございました。

----NEWS----
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18:00〜
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すっかり秋めいてきましたが夏の終わりを追いかけつつ、
季節の変わり目を感じられる日にしたくて「夏宵浪漫」と名付けました。
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配信でご覧いただくみなさんもぜひ部屋の冷房を切り、音量を上げて、甚兵衛とか浴衣をきて、型抜きしながら楽しんでもらえたら嬉しいです!笑

✳︎小野雄大 [MV] ロードムービー


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