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素麺な心になるために

素直な心とは、何物にもとらわれることなく物事の真実を見る心。
だから素直な心になれば、物事の実相に従って、何が正しいか、何をなすべきかということを、正しく把握できるようになる。
つまり素直な心は、人を強く正しく聡明にしてくれるのである。
     松下幸之助

 仕事が都合により突然昼過ぎに終わった今日。
 暑かった。
 腹が減って仕方が無かった。
 仕事の車から、自分の車に乗り換える。
 暑い。
 温室の車内。
 カーエアコンからの全開の風が熱気から冷気に変わる様を送風口にかざした手で感じた。
 途中で外食する事無く,帰宅することに決めた。
 
「ただいま。」
「おかえりなさい。今日は何、早く帰ってきて。」
 連れ添いの驚いた表情。
「今日は、先方の段取りが立っていなくて午前で打ち切り。
暑くて死にそうだったのでまっすぐ帰って来た。」
「そうなの。ご苦労様でした。」
「とりあえず、シャワー。シャワー」
 ささっとシャワーで汗を流し、Tシャツとハーフパンツの着替えてダイニングキッチンのテーブルの椅子の座った。
「何か飲みます。」連れ添いが声を掛けた。
「昼、まだなんだ。何かある。」
「あらやだ、食べて来なかったの。ご飯炊いてないし。」
 連れ添いが冷蔵庫を開け、少し探した後、ラップされた透明なガラス皿を1枚取り出しテーブルの上に置いた。

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 素麺だった。
「ごめんなさい。貴方が帰ってくると思っていなくて。」
 ガラス鉢に入っためんつゆと箸が目の前に運ばれてくる。
 連れ添いは知っている。私が素麺が苦手なことを。
 まだ正直に話すことが相手に心を開いているという愛情の証と思い込んでいた青かった夏のある日。
 連れ添いが用意してくれた素麺を一口すすり「美味しくない。」と言って喧嘩したことを忘れているはずはない。
 それには確たる理由もある。何故ならそれから一度たりとも素麺が私の前にテーブルの上に置かれる事は無かったから。
「お昼の残りで明日食べようと取っといたものだけど。」
 昼下がり。連れ添いは私に隠れて素麺を食べていたのだ。
 私が汗をかいて現場で働いている時、連れ添いは密やかな楽しみとして口ですすっていたのだ。
 その喜びを私が味わうことが出来ないことを知りながら。
 その喜びを連れ添いが、白昼、堪能していたことを今日まで気付かなかったなんて。
 素麺に嫉妬した。
 黙って素麺を睨んでいると連れ添いが声を掛けて来た。
「無理なさらなくても結構ですのよ。ちょっと待ってもらえば何か別のものでも用意しますけど。」
『男の嫉妬の本当のギリギリのところは、体面を傷つけられた怒りだと断言してもよろしい。』
 三島由紀夫の言葉だ。
 男の嫉妬ほど醜いものは無いことは知っている。
 腹が空いて待つことが出来ないから、仕方が無いと自分に言い聞かせた。
 テーブルの上の箸置きに置かれた箸を取り、ガラス皿に盛られた素麺を掴み、ガラス鉢に入っためんつゆに浸す。
 勝負だ。
 箸で掴んだ素麺を口に運び目を閉じてすすった。
 目を見開いた。
 美味い。
 サキシャキとした腰のある歯ごたえと喉越しの良さ。
 もう一掴み素麺をガラス鉢に入っためんつゆに浸し、口に運びすする。
 美味しい。
 確かに鰹だしが効いためんつゆも美味しさを引き立てている。
 しかし、やはり素麺そのものが美味しい。
 何故。
 何故なんだ。
 ガラス皿の中で素麺が織り成す青海波(せいがいは)を見つめていた。

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 三年前の冬。
 「昼飯、ちょっと買ってくる。」
 職場の者に声をかける。
 昼はコンビニ弁等当で手早く済まし昼休みに身体を休めたい性分だ。
 それに、昼、外食で待たされると落ち着かず、午後の仕事に差し支える。
 だから大抵はコンビニで昼飯を済ます。
 コンビニまでの道すがら、ラーメン屋が1件ある。
 いつも長蛇の列の店。だから私は横目で通り過ぎる。
 だが、その日は違った。誰も待っていない。
 店の入り口で覗くと丁度一人の客が出て行った。
 ということは、待つことなく座れる。
 吸い込まれるように店に入った。
「いらっしゃい。」
 一つだけ空いているカウンターの席に腰掛けた。
 20歳前後のバンダナをした女店員が水が入ったプラスチックの青白い半透明のコップを私の前のテーブルに置く。
「いらっしゃい。ご注文は何に致しますか。」
 何も考えていなかった。
 注文票を持ってうっすらと汗をかいている額を見て、のんびりとメニューを見ると、あれこれ考える余裕を与えてくれなかった。
 メニューの定番という文字が目に入る。
「これで。」
 指を指し示すと女店員が注文票にサラサラと書き込む。
「硬さはどうなさいますか。」
「えっ。」
 私のように間誤付く客もきっと多いのだろう。
 すっとメニューを指で指す。
 私は妖術にかかったかのように女店員が指差した文字を口にした。
「じゃあハリガネで」
「はい。毎度あり。ハリガネ一丁。」
 女店員が去った後、メニューを見直した。
 『ハリガネ ハリガネのような硬さ 通のかたはどうぞ!』
 しまった。何も考えず注文してしまった。
 硬麺が好きなわけではない。
 麺は普通の硬さが好きだ。
 ラーメン通でも無い。
 ああ、硬さを普通に変更したい。
 女店員の姿を探すと、遠くのカウンター席の客から注文を取っている。
 厨房の様子を窺うと、職人が手を休むことなくラーメンを作っている。
 とても声を掛けれる雰囲気では無い。
 せっかくだから最高の状態のラーメンを食べたい。
 よし、恥を忍んで、硬さを変更しよう。
 すいませんと、声を掛けようとした瞬間、目の前にラーメンが置かれた。
「お待ちどおさまでした。」

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 豚骨だったのか。


 高校生の頃、何処からか聞いた美味いという噂に釣られ、1時間以上かけて友達数人と行ったパチンコ店の駐車場の一角の豚骨ラーメン屋。
 目指すパチンコ店の看板が近づくにつれ、強くなるツンとしたアンモニアに似た酸っぱい臭い。
 さらに近づくと何かが腐敗した臭いも加わった。
 店の横に自転車を停め、店に入る時の顔はしかめていた。
 注文しラーメンが来るまでのその苦痛は、まだ食べ盛りの私をラーメンとスープを一口二口で箸を置かせ、店から逃げるように追い出し、その味を忘れさせた。


 その時以来の豚骨。
 レンゲを取り、脂が浮いている白濁の汁をすくい、恐る恐る口元に運ぶ。
 ん、良い香りだ。
 確かにツンとする香りがほのかにあるものの食欲をそそられる。
 ふうっと口でレンゲの中のスープを冷まし、口をつける。
 あちっ。
 忘れていた。猫舌だったんだ。
 米寿のバースデーケーキの蝋燭を全て消すかのように息を吹きかけ、レンゲの中のスープを味見した。
 美味い。
 濃厚であるがぎとぎとと脂が出しゃばらない。
 ああ、これが豚骨なんだ。
 この一口で、16歳の記憶が消去され、上書きされた。
 箸で麺を掴む。
 良かった。
 太麺だ。
 細麺のラーメンは何故か知らないが苦手だったから。
 細麺のラーメンで美味しいと思ったことはない。
 安堵しながら口に運ぶも猫舌がそれを阻む。
 スープと同じく息を吹きかけて麺を口に運ぶも、その乾いてしまった麺は、釣り上げた魚のように鉢の中に戻りたがっているが分かり、スープに戻してしまった。
 私は、待った。
 冷めるのを。
 後から来た客が、ラーメンが目の前に来るとすぐにずるずるとすするのを横目に見ながら、箸で麺を上げ下げしたり、スープをかき混ぜたりして冷めるのを待った。

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 三分は待っただろうか。
 いや五分以上かもしれない。
 箸で摘まんだ麺に軽く唇に接吻をした
 熱くない。
 いけそうだ。
 口元にある麺を口腔内に誘い込み、ねっとりとした汁と共に麺を舌を絡めてその弾力と芳醇な旨味を確かめた。
 美味い。
 舌の上にある潤いに満ちてる麺を歯先に転がし、噛み切るときのシコシコとした弾力は生涯初めて感じる甘美なものであった。
 猫舌と言う足枷は、逆にハリガネの太麺を最高の硬さにさせ、冷めるまで要した時間に太麺に染み込んだ豚骨スープの旨味は、その足枷が無い自由を謳歌する者には決して味わうことが出来ない快楽の一瞬だったのかもしれない。
 腰。
 麺の腰を初めて知ったのだ。
 ここに至るまで長い時間を要した。
 私は、鉢に入った麺、スープ、チャーシュー、卵、海苔、葱を堪能し、飲み干した後、コップに入った水を一口飲んだ。
「御馳走様。」

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 店の外に置かれている円筒の灰皿の所で煙草に火を付けた。
 生涯一美味しかった。
 煙草から湧き出る淡青色の煙を遠目で追いながら考えた。
 何故、今日のラーメンが生涯一美味しかったのだろうか。
 豚骨については、早く正答に気付いた。
 匂いだ。
 匂いが私の食欲を減退させ、味覚に誤解を招いたのだ。
 しばらく、俯いて煙草の赤い火玉を見つめて考えた。
 目を見開いた。
 太さだ。
 麺の太さだ。
 猫舌の私は、どうしても出来立ての熱いラーメンが食べれない。
 つまり店で麺が硬さが最高の状態で出されても、猫舌の私は食べれないのだ。
 この店は太麺だ。さらの女店員の甘い罠に引っ掛かり、焦って知らずにハリガネを選んだ。
 太麺は、猫舌の私が口を付けれるほどの熱さになった時、丁度食べごろの硬さとなったのだ。
 そのため、生涯初めての麺の腰を味わうことが出来た。
 今までの冷ましてから口にした麺は全て、伸びていたのである。
 だから味が今一歩だったのだ。
 麺の太さが普通ならまだ食べられる程の麺の伸びだ。
 しかし細麺では、解けて小麦粉へと元に戻るのではないかと思わせるほど、軟らかくなってしまい、とても味わう状態ではなかったのである。
 細麺ラーメンの記憶は、記憶のおぼろげな幼少の時まで辿らなければいけない歴史があった。
 細麺が嫌いだった原因は、猫舌に起因するものだった。
 

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「何、さっきから箸で素麺を掴んだまま固まって。大丈夫。」
 連れ添いの言葉ではっと我に返った。
 箸で摘まんだ素麺をガラス鉢に入っためんつゆに戻し、そのつゆで艶を取り戻したくびれた細麺を口に運んだ。
 美味い。
 素麺が不味いと思いこんでいたのは、細麺が不味いと思い込んでいたからだった。
 そして細麺が不味いと思いこんでいたのは、細麺のラーメンを猫舌の私が熱い時に食べれず、必ず麺が伸びた状態で食べていたからだ。
 何物にもとらわれることなく物事の真実を見れば、素麺は嫌いで無かったんだ。


 ガラス皿に盛られた素麺を箸で掴みながら私は口を開いた。
「もう、昔のことになるけど、作ってくれた素麺を不味いと言って喧嘩になったこと覚えている。
 御免。
 改めて謝るよ。
 あの時は、間違っていた。
 美味しいよ。
 作ってくれるものは全て美味しいよ。
 ありがとう。」
「何、言ってるのよ。」
 連れ添いは俯いて話した。
「こちらこそ、ありがとうございます。」
 箸で掴んだ素麺がこぼれ、ガラス鉢のめんつゆの中で花火のように拡がった。  
 ガラス鉢のめんつゆの中の素麺は、爽やかな涼風に泳いでいるセンニチソウのように揺らいでいる。

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