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vol 9. 奴隷制と分断されるアメリカ

vol 1~8.では現代のテーマを扱ってきました。vol 9.では南北戦争前のアメリカに時代を戻します。1861年4月から4年後の1865年4月まで,アメリカは北部のアメリカ合衆国(United States of America)と南部のアメリカ連合国(Confederate States of America)の2つに分断され,未曾有の米国人戦死者を出すことになる戦争南北に突入しました。この北部と南部の間の溝を広げた非常に重要なひとつの問題として奴隷制が挙げられます。今回は,その南北間における奴隷制に対する認識の違いについて書いてみます。

1つの国に2つの国

南部社会や経済は黒人奴隷を前提に築かれている奴隷州であり,一方北部は奴隷制の存在しない自由州であったため,制度の廃止と存続はどちらにとっても死活問題だったのです。奴隷制に反対する一部の過激な北部人はAbolitionistと呼ばれ,W.L. GarrisonやF. Douglassなどの著名黒人活動家も含まれます。しかし,奴隷制に反対する北部政治家は,奴隷の"即"廃止を求めていた訳ではありませんでした。A. リンカーンでさえ,この地で白人と黒人が平等になるのは難しく,最良の選択肢は国外(西アフリカ・リベリア)に自主的に移動することだと言っています。

破られる均衡

1819年のミズーリ協定において,合衆国は北緯36度30分以北での奴隷州設置を違法としました。この法律により奴隷州と自由州の均衡は保たれていましたが,1840年代のメキシコ戦争に突入することで状況が変わりはじめます。1848年の勝利は,アメリカにカリフォルニアやアリゾナなど西部地域へ急速な領土拡大をもたらしました。また,当時の大統領J. Q. Adamsは領土と奴隷の2つの拡大を危惧し,戦争に反発していました。そして,Adams氏が恐れていたように,新たに獲得した領土を自由州または奴隷州にするかという問題に再び直面し,合衆国は奴隷制度を中心に更なる分断に向かいます。コロンビア大学のMOOCで更に知ることが出来ます。

奴隷廃止を求める北部政治家の動き

奴隷拡大を恐れた北部主導の連邦議会は,「奴隷制が既に存在している州では存続を認めるが,他州(特に西部)への拡大を禁ずる。又,自由州に足を踏み入れた奴隷は即時,自由民とする」と言う計画に乗り出します。ここが妥協案と呼ばれる由縁であり,奴隷制の存続は認めるが拡大は認めないと言う点です。また,特に自由州における奴隷の解放と言う思想は,1772年にイギリスで争われたSomerset v Stewartと言う裁判を元にしています。これは奴隷がイギリスに一歩でも入れば自由人となることを定めた画期的な判決でした。

Cordon of freedomとは

つまり,連邦軍が武力で奴隷を解放するのではなく,奴隷州を自由州で囲み,奴隷は自然と自由州へと逃亡し,奴隷を失うことを恐れる奴隷所有者は仕方なく深南部へ拠点を移します。そして,最終的に奴隷州は縮小し,奴隷経済から自由経済へと移行することを目指したのです。この奴隷制が自ら消滅していくための政策を,"Cordon of freedom"と呼びます。これはサソリが自らを刺して自殺すると言う説に由来しています。リンカーンを支持した,インディアナ州知事O.P. Morton氏がこの政策の根底にある考えを次のように述べました。

"Slavery is sectional and freedom national”(邦訳:奴隷制は部分的であり,自由は国家的である。)

即時開放ではなく50~100年を要する段階的な解放,そして合衆国憲法に抵触することなく奴隷制の廃止を目指したのです。この歴史的解釈を,ニューヨーク市立大学のJames Oaks氏の著書で更に学ぶことが出来ます。

再び破られる均衡

しかし,北部人が想定したいたように現実は思い通りに展開しませんでした。南部人は逃亡する奴隷を恐れ,1850年にFugitive Slave Act(逃亡奴隷法)を制定します。これにより,北部に逃亡した奴隷を南部のプランテーションに引き渡すことが可能になります。そして,南部政治家は追い討ちをかけるように,1854年にカンザス・ネブラスカ法を可決させます。この法案は,カンザス及びネブラスカ両准州が州に昇格する際,自由州又は奴隷州の選択を,居住者の選挙により決定するとしました。しかし,この両州はミズーリ協定で定められた境界線よりも以北に位置していたため,奴隷州と自由州を同数にし均衡を取るという従来の妥協案はここで破られます。

避けられぬ南北戦争

その後の戦争勃発までの流れを簡潔にまとめます。まず,1857年のDred Scott判決において,黒人は米国市民ではなく,連邦政府は奴隷制を廃止する権力を持たないとされます。1859年には,白人の奴隷制反対論者であるJohn Brown氏が,ヴァージニア州Harpers Ferryにて武装蜂起します。"白人"であるBrown氏の反乱は,南部人にとって最も恐れていたことであり,その翌年の1860年に奴隷廃止を掲げる共和党のリンカーンが当選すると,とうとうサウスカロライナ州が連邦を脱退します。その翌年,Battle of Fort Sumterにより南北戦争が幕を開けました。映画監督であるケン・バーンズ氏が製作した南北戦争の英語ドキュメンタリーを以下から視聴することができます。

終わりに

今回は,奴隷制の観点から南北戦争勃発までの流れを説明しました。他にも,北部は黒人奴隷を白人と同様に平等な存在と認識する一方,南部は奴隷を所有物または財産としていたので修正第5条の財産権の保障により,奴隷制は合憲であるという認識の違いもあります。また,南北間の経済事情の違いも挙げられるでしょう。

次回は,南北戦争中における黒人兵士について書きます。それでは,またお会いしましょう。



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