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【とある本格派フェミニストの憂鬱5パス目】「2020年代=分布意味論の時代」前夜の風景

まだまだしばらくは「記憶のあやふやな昔話」が続くのをお許しください。

まさに当事者として体験したが故にTumbrがその様な状態にあったのは全盛期すなわち2010年代前半の数年間に過ぎなかった事も知っている。「デビッド・カープの関心空間論」の問題点は以下の二つ。①「広告収入の一部が上流回覧者に還元される」といったマネタイズ要素を欠いており、2010年代中旬以降、Youtuberが活躍するYoutubeにこの層をごっそり引き抜かれてしまった。②かかる権威勾配は「若者間コミュニケーション」という観点からすればいささか権威主義過ぎたのと、2010年代後半に入ると「二重生活を送るモチベーション」が薄れた事が重なって素人動画投稿サイトを蹴散らしたInstagramなどに若者層が活動の主軸を移した。そしてもちろん数多くの顧客を抱えるショッピング・サイトや動画配信サイトなども「デビッド・カープの関心空間論」の成功をただ指を咥えて眺めていた訳ではなく、積極的にその要素を取り込んだ顧客需要発掘に取り組んできた。つまりTumbrの先行者優位は繁栄の絶頂期において既に急速に失われつつあった訳で、そもそもFacebook社自体が会社創立時点の理念をそのまま維持していたら2012年時点で目敏くInstagram社を買収してる筈がない。そう考えるとTumbrの衰退を決定づけた「2018年の大粛清」は、あくまでビザンティン帝国滅亡を決定付けたコンスタンティノープル陥落(1453年)同様ある種のエピローグに過ぎなかったともいえそうなのである。もちろんそれ以前の段階で「ザッカーバークの人間関係空環論」も「ショーン・パーカーの関心空間論」も敗北し、棄却された訳だが、かといって「デビッド・カープの関心空間論」が最終勝者となった瞬間は一瞬たりともなかった。後世の人間はこの点に配慮する必要がある。

上掲「人間関係空間論から分布意味論へと推移したSNS略史」より。

で、2016年から2018年に掛けて次第に活動の場を主にはてなブログに移していきます。その契機となったのがこの年の日本映画の大豊作…

しかもこれらの作品は揃って「(日常の裂け目から何かが押し入ってくる)ピクチャレスク」概念を主題としていたのです、それらを結びつける投稿が大当たりした事もあって、この年の私のはてなブログの投稿は3000PV/日以上を軽くキープしていたものです。


「分布意味論」概念の靴音?

その一方で当時の私はTumbr時代に経験した「要素数が$${2^{1000}=10^{30}}$$を超えた時に起こる自由度爆発みたいなもの」に飢えていて、以下の様なタイプの投稿にも傾注してきたのです。
分散セマンティクス{Distributional Semantics):分布意味論

「再録」なのは、当時はなんでもウォーラーステインの世界システム論や、ホブズホームの「長い19世紀」「短い20世紀」論や、ベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」「公定ナショナリズム」「モジュール化(転用可能なモデル化)」論と結びつけて落とすディスクールを基本採用していて、そういう投稿スタイルが2010年代後半のうちにも時代遅れとなって次第に振るわなくなっていったから。「これからの再利用」を考え、その部分を全抜きにした結果という次第。

こうして2016年以降、ガッツリ取り組めるトレンドが見つからなかった事と上掲の様なデータベース系投稿のフォーマットが次第に時代遅れになっていったのが重なって2017年には500PV/日を下回る日すら珍しくない零落ぶり。そこまで追い詰められた背景には「これまで誰もが疑問を感じつつ、それまで放置してきた話題について図書館で徹底して調べ抜く」近代食品研究会的投稿スタイルの新登場なるパラダイムシフトもあったのです。

こうして2017年末に「自分の考え方には徹底して数理が足りてない」と自覚して数学再勉強を誓う展開を迎えます。とりあえず、統計言語Rを学びながら半年以上かけて読破したのが以下の2冊。

なお、それ以前にまともに読み通した記憶があるのは以下くらい。

「溺れる者が(間違えて)鰐をも掴む」壮絶な展開の始まり…始まり?


「本格派フェミニズム」概念の靴音?

こうして全体像を俯瞰する観点も出てきたので、ずっと後回しにしてきたシリーズ題字の改題を手早く済ませておきましょう。ここでいう「本格」とは総理小説のジャンル分けというより…

池波正太郎「鬼平犯科帳シリーズ(1967年~1989年)」で(数十年掛けて下調べを重ね、ヒューミンとエンジニリングの錐を尽くして人的被害を一切出さず犯行に及ぶ)昔気質の老盗賊が(ロクに下調べせず乱暴に押し入り、その場の全員を口封じと称して皆殺しにして引き上げる)今風の荒っぽい若手盗賊について苦々しく思ってる(この辺りが「憂鬱」の由来)程度のニュアンスとお考え下さい。

ならば「フェミニズム」とは? そもそも男女それぞれが抱える「性欲」は糖質ではなく、まずそこから出発しないといけません(リンク先エロ注意)

上掲投稿で触れた日本のアニメ漫画GAME作品

この話に踏み込むには、現在はてなブログの方で進めてる関連再録の蓄積がもう少しばかり必要です(おそらく最低でも11月一杯は掛かる予定) 。なお最終到達を目してる数学的構造自体はもうまとまっていて、それ自体は166回直木賞を受賞した米澤穂信「黒牢城 (2021年)」からの流用に過ぎなかったりする次第。

「相関係数」とは、それぞれ固有の中心と分散の時間推移で構成される円筒座標系から量(スカラー)比を抜いて1対一で対応させ(直行させ)結果として生じる楕円断面を、残された第三軸から眺めた時の回転写像。角度により1次関数y=xとy=-xの間を往復し相関係数0の時に真円を描く。

コーシーの積分定理(Cauchy's integral theorem)に従えば$${\oint_C f(z)dz=0}$$、すなわち正則の複素関数の周回積分結果は0となる。

円弧の場合で説明すると、円の周回を幾つの連続偶数倍ベクトルに分割したとしても、必ず任意のベクトルについて正反対の「共衡ベクトル」が存在する為、必ず合計が0になる。

だが米澤穂信「黒牢城 (2021年)」には「一向宗のジレンマ」という形で
以下のメカニズムを示す。①浄土真宗の開祖たる親鸞聖人が伝えたかったのはある種の門徒精神解放、すなわち「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」の一言により「相関係数ゼロ=最終的に積算結果が0となる四方八方への展開が一切の精神的拘束を受けず最も自然に分散する」生きやすくて、死を迎えても後悔が最小限で収まる、そんな生き方だった筈である。

②ところが一向宗の僧侶達は戦闘継続の為に「守るべきもの(相関係数1=自分自身)」と「倒すべきもの(相関係数-1=敵)」を勝手に定め、門徒達を無制限で戦い続ける単なる戦闘マシーンに変貌させてしまった。その結果。彼らがどう生き、どう死んでいく事になったかについて、想像力も働かないのか。

シュミットは政治家の仕事は「純粋に政治的なるもの」の追求と規定。それは単なる美学性や道徳性や合法性や経済性それぞれの追求を超越した「友敵原理」すなわち「(個人的な感情発露や心理的表現、経済上の競争を超越した存在的他者・異質者への排斥原理に立脚する)敵」と「(これに対抗すべく団結し同化を果たしていく)友」の区別から出発しつつ、次第に「友」を同化し、最終的には国家そのものに対してのみ直接責任を負う「例外状態(Ausnahmezustand)」を現出させるプロセスとしました。

上掲「こんにちは、そしてさよならナチズム」

まぁこういう考え方の総決算? そんな感じで以下続報…


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