「好きトレ」。(2020年11月20日(金))
訓練とかトレーニングとか、「○○をしよう」という約束とか、そういったものには総じて、面倒くささが含まれています。なぜそんな面倒くさいことを、時々でいいから意識的にやっておいた方がいいのかといえば、それは、「好き」というものが「筋肉」と同じように「鍛えておいた方がいいもの」だから(時々意識的に鍛えておかないと衰えるものだから)なのだということを、昨日から学んでいます。
「好き」を鍛えることも、「筋肉」を鍛えることも、目的(そもそもなぜそれをしたいと思ったのか、私にとって心地よいとは何か)と、それをすることによって見込まれる状況変化の予測とその実際の変化との対比分析など、そういったことがらを考える時間をきちんと確保する(日常に追われて目の前のことだけをやって流されるのではなく)ことがものすごく大事で、
さらに言うなら、このポイントは「そもそも」の考察から始めることにあり、しかもその「そもそも」は「偉い人からそうしろと言われた」とかではなく、「自分がワクワクすることって何だろう」の考察から始めることが肝要で、その上で「好きトレ」と「筋トレ」が同じものだと仮定するなら、
日々の「養生」を前提としながら、自分の中のどの「好き」を強化するかを決め、できればその「好き」が何をきっかけに自分の中に生まれているのかなど(構造)を知った上で、その時々の自分の心身のコンディションを踏まえつつ、きちんと時間を確保しながら、いいあんばいの頻度と負荷とメニューを設定して「トレーニング」するのがいいのだと言えます。
昨日は、右脳は「今」「自分という壁をつくらず外と接続する」器官で、左脳はそうして掴んだ「今」を、「言葉」を使い、「同一性(過去と未来)」でつなぐ器官だということも学んで「なるほど」と思ったのですが、脳がそのように働くことを知り、自分の肉体がどのように働くのかも知った上で、この「好きトレ」を重ねたなら、自分の「好き」が本当にうまいこと育っていくのだろうなと、その面倒くささを超えたくなってきています。
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