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あそべるようになろう。(2021年7月9日(金))


ほぼ日のこちらのコンテンツの中で糸井さんが、「努力すれば能力が得られて、能力によって出世ができて豊かになれるっていう幻想が激しくなりすぎちゃった」「意味のあるもの、役に立つもの、利益のあるもの、みたいな今までの価値観が整理されすぎて、そっち側に行きすぎたんじゃないかな」などとおっしゃっていて、まさにそういうしんどい生活をしてきた私は、「そうなんだよなぁ!」と首を縦に振りながらこれを読んだのでした。

「頑張れば、誰かが認めてくれる」という幻想の行き過ぎ。それが結果として、「こんなに頑張ってるのに、誰も私を認めてくれない」という幼稚な苦しみを勝手に生み出してしまう。40をはるかに過ぎた今なお「こんなに頑張ってるのに」と思う私は、「意味のあるもの、役に立つもの、利益のあるものに行きすぎ」てきたことにようやく気づき、そうでない方向にバランスを取り始めています。

「たとえば花火の打ち上げには、ものすごい技術が必要じゃないですか。で、その技術を教えなきゃならない相手は花火を打ち上げる弟子なんだよね。そうじゃなくて、花火の何がおもしろいかをわかっているお客さんが増えると、花火そのものがもっとよくなるじゃない?そんなことのほうが今、大事なんじゃないかな。」「どこに感心したかを話すほうが伝わると思うんです。」そう語る糸井さん。

「頑張れば、誰かが認めてくれる」という幻想の行き過ぎは、これまでの私に「技術を高め、それを教えられるようにならなければ、誰にも認められない」という恐怖を与えてきたし、その恐怖が「こんなに技術を高めたのに、誰もそれを聞いてくれない」という怒りにつながっていたわけです。

これからの私はもう、自然や芸術を「意味」にとらわれることなくたのしんで生きていこう、誰かと話す機会に恵まれたなら「どこに感心したかを話す」ことをたのしもうと、決意したのでした。

#エッセイ #日記 #memento

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