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ゆるく、ぜんぶ好き「芥川龍之介」(エッセイ)

 時は二〇二四年八月十一日、百年ぶりの巴里五輪が今夜閉会する。世界一を賭けて繰り広げられた勝負の日々もやっと終わる。
 連日報道される選手達の身体の躍動とそこから沸き起こる感動とは対照的に私は心身の不調に悩まされていた。

 我が子が寝ないのだ。今年初頭に産まれた彼は未だ睡眠の仕方を覚えていない。よくて五時間寝てくれることもあれば、翌日には二時間、否一時間おきに泣き起きてしまう。
 特に五時台は鬼門で、世界が明るくなっていることがどうやら恐ろしいらしい。今は聞き慣れた自鳴琴の音で何とか安心したらしく、清々しい朝日の中目を閉じている。
 連日の夜間対応により私の自律神経が乱れている気がする。昨日は下痢と胃痛があり、夕飯は梅粥を食べた。少しでも睡眠時間を確保するために我が子と共に就寝している。卓球団体への夫の声援が扉の向こうから聞こえた。

 私は元来スポーツに関心が低い人間だが、そこに心身の不調が重なると疎ましささえ出てくる。五輪の華やかで活気溢れる雰囲気について行けない。完全に取り残されている。
 そんな時、心の支えになるのはやはり読書だ。特に好きな作家の作品がいい。普段なら読書だけで救われるが、こういう時は並大抵の作家では駄目だ。処方薬のように無駄なく心に染み渡る好きな作家の作品でなくては。

 その作家が私にとって芥川である。膨大な作品の中から濃淡はあれど「人生のままならなさ」を感じる。彼の筆致に圧倒されるのが心地よい。
 受験の時に現代文で出題された「蜜柑」で興味を持ち、別の試験で読んだ「手巾」で完全に堕ちた。試験中に密かに感動し、文末の引用欄で「これも芥川か」と唸った。
 このように愛を語っていても、芥川を読み終えたのは大学生の時に一回だけだ。ちくま文庫の全集を買い集めた。もう十五年以上開いていない巻もある。それでも手放そうと思ったことは一度も無い。ややグロテスクな表紙が魅力の八冊はいつだって本棚にある。

 以前、「蜜柑」を人に勧めたことがある。その人の心には刺さらなかったようで、主人公のことを「なんて性格の悪い奴だと思った」と笑っていた。この人はノーベル文学賞の海外作品も読むような人で文学に疎いわけでは無いので意外だった。芥川を好む人はやはり根暗なのかもしれない。

 我が子と朝日は似ている。希望が満ち満ちているが、不安や心配も孕んでいる。私にも「ぼんやりとした不安」が凡人なりにあるが、凡人なりに生きねばならぬ。死んでしまった彼の力を生きるために借りるとしよう。

 ああ、我が子が泣き起きた。乳を咥えさせて抱きかかえてあげよう。

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