見出し画像

雑記 1日の始まりは

1日の始まりは、朝なのか夜なのか。

なぜ突然にそんなこと言い出して、と言うと、
「夕べ、に光あり」というザカリア書の一節について、長い間漠然と答えを求めていた。
詳しくは、essay1 夕べに光あり、に書いたが、これは長い間私の頭を離れない宿題だった。

今年(2020)の初めになって、
「夕べの光」とは、ヘブライ語の原典を正確に訳すと、星の光のことではなく、日没時、太陽が地平線に沈む夕暮れ時の数十分、地平線の上部の空が黄金色に明るく光ることを言うのだ、と知った。(佐治晴夫/堀江重郎著『男性復活! 宇宙の進化と男性滅亡に抗して』)

終わりにして、始まりの気配を感じさせる、マジックアワー。

朝に道を聞かば夕べに死すとも可也
と論語に言う。

聖徳太子は、
倭国王日出処の天子から隋の皇帝日没処の天子へ、と言った。

屋根の上のヴァイオリン弾きでは、
Sun rise, Sun set、Sun rise, Sun set....
と歌われる。

生き物は、生まれなければ死ぬこともないのだから、
ものの始まりは、種から芽が出て膨らんで花が咲いて
……。だから、1日の始まりは、朝、と疑うことはなかった。

だが、

佐治晴夫先生の御著書の中には次のようにあった。

「ユダヤ教やキリスト教では1日は夜から始まる。
砂漠の熱いところでは、夕方にならないとホッと一息つくことが出来ない。
今日1日生きたことの感謝と明日への希望を祈る。
1日が夕の祈りから始まる。」

創世記には、神が「光あれ」と言う。
闇があって光がある。ヘブライ語での闇は、神の居場所を示す語でもある、と言う。

🚗•*¨*•.¸¸♪

クリスマスイブは、
キリストの生まれる前の晩だが、
夜通し羊の番をしている人に「今宵救い主が生まれる」と天使が告げ、明るい星が厩の上に光り輝いて、博士らを導いた。教会の寸劇でも、この場面がないものはない。
クリスマスの前の晩、が第一幕。

だが、現実的な話をすれば、

我が家で、クリスマスといえば、キリストの生誕に想いを馳せ祝うのではなく、イブの晩餐がイベントの全てである。

ローストチキンがテーブルの中央にあり、シャンパンのグラスが光り、ケーキが出番を待つ。
時にリボンのかけられた四角い箱がツリーの下にはあるとなお良い。

雪も滅多に降らない東京なのに、この日ばかりは、室内にはホワイト•クリスマスの甘い歌声が流れる。ビング•クロスビーか、トニー•ベネットか、パット•ブーンか、アンディ•ウイリアムズか。間違っても、森進一や北島三郎はない。

そしてスピーカーからは「橇」をひく馬につけられた鈴の音が軽やかに響き、御者の鞭の音、馬の嘶き。。。

あ〜〜、何やってるんだろう。
信仰とは無縁のイベント。

毎年思うのである。

こんな寒い日は、一人で、教会の冷たい木の椅子で、静かに時間を過ごしたい。

だが、台所担当の主婦である私は、その日は料理人及び世話係で忙しい。クリスチャンでないことも、腰が引ける原因である。

大学の聖歌隊に所属して、キリスト教とは、付かず離れず、程よい距離を保ちつつ、他の宗教よりは身近に感じて暮らしてきた。
毎年クリスマス礼拝に駆り出されて、
「洗礼を受けた方だけお立ちください」のあたりに来て、人々が起立する合間に沈没していると、やはり部外者、の気持ち。寂しいけれど、パンと葡萄酒を口にするために洗礼など受けまいぞ、と思う。
それなのに、教会の椅子には座りたい、と思う。

何かしら、外国は、日本よりは素敵、高級、お洒落、粋、と幼い頃から頭に刷り込まれてしまっていることも悲しい。

そして、外国のパーティーの真似事も、ついついしてしまう。現実は、今宵キリストがお生まれになる、ということは置いておいての、何だか分からないけれど、とにかく家族で鶏の丸焼きを囲む前夜祭。
食べて飲む日。馬鹿な話だ。

罰当たりな奴め、と敬虔なキリスト教徒は言うだろうな。


闇は神の居場所。
光あれ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?