見出し画像

雑記 4 忘却の雨

ーー「ファンタスティックビーストと魔法使いの旅」よりーー

この映画作品は、ハリーポッターより数十年前のアメリカが舞台となっており、日本では2016年の11月公開された。
イギリスの魔法省で働いていた魔法動物学者ニュート•スキャマンダーを中心人物に、アメリカ合衆国魔法会議で働く魔女のティナ•ゴールドスタイン、その妹のクイーニ•ゴールドスタイン、ニューヨークに住む一般市民のジェイコブ•コワルスキーの
4人が中心になって物語が進んでいく。

🚗•*¨*•.¸¸♪

時は1926年。ニューヨークに危機が迫っていた。
不可解な現象が街中に破壊の爪痕を残し、一般市民の間に魔法社会の存在が知られようとしていた。
街角では「魔法使いは実在し危険である」と主張する新セーレム救世軍の主催者が、魔法使い撲滅を訴える演説をしていた。
そんな中、イギリスの魔法動物学者で、魔法動物の絶滅危惧種を保護しながら世界を旅していたニュート•スキャマンダーが船でニューヨークにやってくる。彼は、保護した魔法動物を入れた鞄を持っている。入国審査は危ういところでパス。
一般市民のジェイコブ・コワルスキーは、缶詰工場で働きながら、パン屋開業を夢見ている。

ニュートが救世軍の「魔法使い撲滅」の演説を聞いているうちに、鞄から魔法動物が1匹逃げ出す。この様子を目にした、ニューヨーク魔法省で働く闇祓いの魔女ティナ・ゴールドスタインは、ニュートを「闇の魔法使い」と見て彼を追い始める。

ニュートが逃げ出した動物を捕まえようとしているうちに、あまりにも酷似したジェイコブの鞄とニュートの鞄の取り違えが起こる。
自宅に帰ったジェイコブは、自分のものと思って鞄を開け、中に入っていた魔法動物を街に放ってしまう。
ただでさえ緊迫している街がその動物たちの行動でさらに混乱する。

J.K.ローリング脚本による映画「ファンタスティックビーストと魔法使いの旅」の冒頭部分である。

書きだして気が付いたが、ローリングの書く複雑な話をかいつまんで話すことは不可能。当然か。
だから、ここまで読んで、人物関係も状況設定も複雑で、何が書かれているかよく分からないという人は、ここで読むのを、やめたほうがいい。
私もこの先書ききれるか不安になって、内なる声は、やめたほうがいいんじゃネ、と言っている。

🚗•*¨*•.¸¸♪

ニューヨークに起こっている不可解な現象は救世軍のリーダーの養子クリーデンスが引き起こしていたものだったのだが、ジェイコブが逃がした魔法動物が街中で暴れまわり、街はさらに混乱に陥る。被害を最小限にとどめるため、早く魔法動物を回収せねばならない。
闇の魔法使いと疑われたニュートやティナがアメリカ合衆国魔法省に捕われたり、映画は次から次へと複雑に展開し、彼らの前に困難が立ちはだかる。

ここで物語は、もう一つの流れに突入する。ニュートを監視するために、ティナがニュートとジェイコブを自宅に連れて行く。

ティナの自宅には、クイニーという美しい妹がいて、人の心を読むことが出来る。
ニュートと共にティナの家を訪れたジェイコブはクイニーを見て一目惚れ、たちまちクイニーのとりこになる。
世界には、魔法使いと非魔法使いがいて、アメリカでは、普通の人間(非魔法使い)のことを「ノー•マジ」と呼ぶ。「ハリーポッター」のイギリスで「マグル」と呼ばれるものである。
魔法界の者は、普通の人間との交際は禁じられている。恋愛も禁止されていて、勿論、結婚など出来ない。
ただ、禁止であっても、愛は止められない。ノーマジのジェイコブは心底クイニーに引かれ、またクイニーもジェイコブを愛するようになる。

次々起こる事件のことは、映画を見ていただくことにして略す。
あんなこともあった、こんなこともあった、だが、4人は力を合わせてそれを乗り越えてきた。
我ながら、簡潔な説明。

🚗•*¨*•.¸¸♪

映画の終わりがけに、ここまでやるかというほど破壊された街の道路や建物の崩れたレンガの山が、魔法の杖の一振りで、次々と修復されて、元通りの街並みになっていく。

地下鉄から地上に出る階段を上ったところで、クイニーは、心を込めてそっとジェイコブに口づけをする。
そして、オブリビエイト。
オブリビエイトとは、魔法使いの用語で、記憶を消去すること。
ニューヨークの空に鳳凰のような魔法動物が舞い、小雨が降り出し、街中の人々の記憶から、一連の事件の記憶が消されて行く。

地下鉄の出口から、ひとり雨の中に出るジェイコブ。それを見守る魔法使いの三人。
微笑みながら両手を広げ、雨に打たれて、記憶が薄れて行く。
忘れたくないのは、クイニーを愛しているということであるに違いない。ともに行動し微笑みを交わしたという日常の何気ない関わりも。だが、雨は容赦なく、記憶を消していく。
しばらくして、ジェイコブは、その三人が誰であったかさえ分からなくなり、目をしばたいた後、自宅に向かって帰っていく。

切ないなぁ。忘れてしまうこと。思い出せないこと。

これは、我々の人生で起きることに似ている。忘れること、忘れられることは、神の恵みだろう。
人生の終わり近くになって、一緒に生きてきた周りの者を、自分と関わった人間として認識できなくなることはあることだし、「死」そのものも「忘却」と言っていいだろう。
死にゆく人間は、この優しい雨に打たれて、すべてを忘却しつつ、新しい世界に向かう。

その後、ジェイコブは、ニュートの計らいでパン屋の開店資金を得て店を開き、ユニークな形のパンが並ぶ店は大繁盛となる。
そのパン屋に、クイニーがパンを買いに来る。ジェイコブと目が合う。
はて、どこかで見たような気が……と目をパチクリさせるが、思い出せない。客のクイニーはパンを買って去り、そして、そのまま物語は終わりに向かう。

この映画にはいわゆる「ラブシーン」はない。

ニュートが、イギリスに戻ったら『幻の動物とその生息地』という本を書くつもりで、出来上がったら送るよ、と船着き場まで送って来たティナに言う。
そして、少し寂しそうにしているティナの前髪を、そっとかき上げてやる。
その細いけれどごつごつした男の指の緩やかな動きが、ティナを想うニュートの心を映し出している。

映画の間中、座席の両側のひじ掛けをつかんで、硬直し、手に汗を握り、心臓の動悸が隣の人に聞こえそうになるほどドキドキして、画面に食い入って見ていた観客としての私の心にも、ひたひたと雨が入り込む。
否応なく忘れさせられることの悲しみを感じながら、しみじみとした懐かしさと別れの切なさに包まれる。

忘却の雨。


P.S.
長い無駄話に付き合ってくださった方々にお礼申し上げます。

映画を見ていない人には、何のこっちゃ?の話であると思うので、読む人全部が理解可能かどうかは分からない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?