好きがわからない

この人だ!という確信も分からなければ、自分には勿体無い、という感覚もわからずに生きてきました。
嫌悪感と、嫉妬心と、不安感がない人が好きな人です。
時々それがあったとしても、恐怖心が勝った時にはそれに抗わずに自己防衛することを優先してきました。
無条件の好き、が一人であればわかります。
無条件の好きを経験したことがあっても、人は単純な生き物ではないので、思うようにならないこともたくさんあります。
思い通りに動くのは、人形や、創作、またはファンタジーの世界です。

どこかに正解があるのだと信じて疑わなかったのです。
他者が介入した時の関係性の築き方が未熟であることが露見します。
好きなものを言ったときに、馬鹿にされることや、貶されることが重なると、前提として純な気持ちで素直な心に宿った好き、に疑念が生まれます。

小さい頃に描いていたキャラクターとそっくりなアニメを最近見つけて、正確に見たことがなかったのですが、最近見るようになりました。
お小遣いに限りがあったのと、当時の興味が向いていたことの外のことだったため、パッケージの記憶しかない状態でした。
お金を使わずに楽しむ方法として、パッケージをみて、それがどんなキャラクターなのか、どんなストーリーなのかを想像する、また、これは時々今でもするのですが、地面の模様を頭の中で繋ぎ合わせて絵を想像することをしていました。
私の場合、意識をかなり限定的な部分に焦点を当てる傾向があります。
それに気づいたのも、実は最近なのです。
全体を俯瞰して見ることが苦手です。
嘲笑されることや、好きなものを馬鹿にされること、そんなことに夢中になってどうする、と否定されることで、傷ついたトラウマがあるからです。
自信いっぱいに、自慢する子供だったかと言われると、一人でなるべく見せたくなかったです。

それが癪に障ることを無意識に行動レベルでやっていたのかもしれません。
自分の動きを映像で録画して後で見返すことができるのであれば、振り返りができることと、第三者視点で自分の行動を見ることができるので、行動の変化をとりやすいです。けれど、一般人なので、わざわざそういうことをしません。監視する必要がないからです。

好きなものを認める、ということを一人であれば安心してできるのですが、他者が関与すると一気にできなくなります。
誰かの好きを否定することも苦手なため、好意を向けられた時に、断るのが苦手な傾向があり、自身にも、相手にも結果的に良くない言動になってしまいます。
人間に対する好き、に関しては解像度が低いまま大人になってしまいました。
自分にとっては興味があったり、好きであっても、他者にとっては興味がなかったり、好きではないこともあるのです。

また、自分主体での他者に向ける好き、は成就するとは限らないので、保守的になっているのです。
最近何をそんなに守っているのだろうか、と考えることがあります。
小さい頃から背が高くて、目につくことが多かったので、それで表面的な部分で他者からの判断で傷つくことをもう経験したくない、という気持ちもあります。
親戚にも否定されることもあったので、だんだん萎縮するようになってきたのもあると思います。

受け入れられる経験と、受け入れられない経験の中で、私の場合は親がオープンコミュニケーションが少ない家庭だったので、大人が何を考えているのか、存在が空気のようにふわふわした状態でしか自認できなかったこともあります。

今は大人なので、自分で認めることから始めた段階です。年齢も考えると、周りの人と比べることももちろんあります。けれど、周りが結婚したり、出産したり、ライフステージが変わっていったとしても、今の自分と向き合うことから逃げることは、悪化することがあっても、好転することはありません。
得意の現実逃避をしたとしても、現実の時間は容赦なく進みます。
自分の首を絞めたいわけではなく、近道なく、今立っている場所から動き出すしか、近道はありません。
近道がない、ということが現実です。

正解と不正解があるわけではありません。
最近は食事の楽しみがなくなってきたので、寝ている間が幸せです。

楽しい、と好きの感覚は近いと感じています。愛おしいという感覚は母性や父性という人間に備わった本能に近いものなのかもしれません。
認めてもらいたい欲が強いのだと自認しています。
けれど強要は気持ちが悪いです。
受け取り方次第で、見え方も変わってしまうので、ややこしいです。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?