FABERCASTELL色鉛筆とシャーペン

ファーバーカステルの存在を知ったのは、大学に入学して色鉛筆でも油性色鉛筆でおすすめ、ということで、画材費はしっかりかけることを自分の約束事として4月に決意して購入しました。それから、この8ヶ月かなりお世話になってきました。
色鉛筆ですが、分類としては高級文具に入るのではないかと思います。諭吉が2人とちょっとくらいします。色種類が増えると、さらに高いですが、今の自分では種類が多くても、そこまでは使いこなせないのと、色を重ねて混色することを目的としている部分があるので、丁度いいです。

また、たまたま別のジャンルの講義で使用された動画教材の映画の中でCEOの人との会話がありました。FABERCASTELLはドイツのメーカーです。
興味深かったため、今日改めて映画を見ることにしました。

私が1回目の大学生だった頃、予想外の旅行の最中に購入したシャーペンのデザインが好きで今でも持っているのですが、仕事を始めてからシャーペンよりも、ボールペンを使う頻度が増えました。今日シャーペンのそのメーカーがFABERCASTELLと書いてあることに気が付きました。確かに、独特な書き心地があって、シャーペンにしてはこっくりした感覚があります。
普段好きなシャーペンは中学生の頃から使っているのですが、それは日本のメーカーで、さらっと軽い感覚です。
FABERCASTELLのシャーペンを購入したのは、9年ほど前のことでした。
先ほど気がついて、驚いたので、残しておこうと思います。縁があったのだと思います。点が線に繋がった感じがしました。線が繋がると、面になります。そうやって繋がっていくことで、多面的な見方で物事を見ることができるので、いろいろなことを学ぶことが好きです。

色鉛筆を使うようになって、シャーペンを使うと、色鉛筆のこっくりした感覚と近いことを実感しました。
そういう書き心地を出すシャーペンを作りたかったのかはわかりませんが、海外の文具の感じがあります。
今色鉛筆を使うようになって、それで比較ができるようになる下地ができてきたのだと感じます。

予想できないことが、自覚しない部分で広がって行くこと、繋がっていくことが生きていて、かけがえのない面白さがあるのだと思います。

全然話が変わるのですが、私は運動経験が全くないのですが、大学生の頃にフルマラソンを走り切ったことがあります。国家試験と、就活と、卒論と忙しい時期でした。1年前から自己流でペースと距離を伸ばして行きました。10キロマラソンでマラソンの空気を体験してみて、自主的に20キロを走ることにチャレンジしてみて、ということをやって、時には本屋でマラソンの雑誌で情報収集をしてみて、本番は一人で走り切りました。

これを話すと、タイムはいくつ?と聞かれることがあるのですが、達成することを軽視せずに、前提としてゴールすることを目的としていたので、体験してみることの大事さを知った経験でもありました。
やってみて、それで自分ごととして足切りされることなく、自分ペースで目的を達成することができたことが嬉しかったのを覚えています。

体験してみないと、実際に自分がその場、その立場にならないと見えてこない世界があります。
未知のものを理解できないから、無意識でなかったものとして扱ってしまうこともあります。それは、傲慢さに繋がる場合もあります。無知の傲慢は避けたいです。
けれど、すべてのことに精通した完全な人というものは有り得ません。限界がそもそもあるからです。
けれど、自分にとっての最大限を尽くすことはできます。
手段と、方法が具体であればそれを達成することができます。やってみて、かかる日数と、精神的体力的負荷を明確化してみて、それからキャパを知ることができます。また、適正も分かります。
早いか遅いか、という時間での判断軸もある場合もありますが、それは大概商業的視点の物差しを当てた場合です。社会軸や、経済軸や、時間軸、時代軸、どの物差しで判断するかで物事の見る目が変わります。
見る目が変わると、その先にある対象をどのようにみるかが変わります。

以前、私は書類やノートの整理整頓が苦手であることを書き残しました。直近の授業の中で、講義の偉い先生がレジュメとプリントの書類以外の口述的な授業の進め方が、あまり整理されていないように感じました。
その中で、そのさらに前の体系的な整理のされた授業をされた先生の進め方との違いを考察しました。
体型立てて、整理整頓されている場合、目的や答えとされているものが統一されて、一つの答えや目的を見出しやすいということがあります。
けれど、整理されていないように感じる授業の場合、その口述を聞きながら先生の思考や脳を追体験する方法だと、その中に余白があるので、自分の考えや問いが生まれること、その問題や仮説がその先に自分で問いに対する解釈に繋がることを自覚したのが今週の土日でした。

日本の教育の方法や時代的家庭のあり方を知ることは、簡単な他人の言葉で片付けなく、自分の言葉で、自分の意見で考えを持てることに繋がります。
乗っかることが悪い、というわけではなく、その人が見えるのは、その人自身の言葉で見える化されることが他の自分以外の人にとっての虚構なくその人理解する手段だからです。
他人の言葉に乗っかることで、その人自身が見えてこない関係は疑いが生まれます。
心が開かれているかどうかを知る指標でもあるからです。表層的なつながりであれば、それを望む人同士であればいいです。また、家庭や、友人、職場での人との繋がり方は正式にテキストや参考書があるわけではありませんが、繋がり方に違いがあることは明確です。
人の世界には、テキスト化されているものと、テキスト化されていない部分があるのです。
不明瞭なので、面白さも、不安も、あります。
世界のことを全然知らないことを痛感しながらも、また、YOUTUBEでの影響力のある人であっても、全肯定するのではなく、どの物差しを大きく振りかざしているのか判断しながら見極めつつ、WEBを活用して今の時代に適応して生き延びて行きたいです。


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