『宗歩の角行』(光文社)の扱う「家元名人制」の時代
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今日も『宗歩の角行』(光文社)
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さて、江戸時代末期の将棋指し、天野宗歩を主人公にする本作、将棋小説ではあるのですが、現代のプロ将棋の世界とはまったく同じ世界観が前提というわけではありません。現在の将棋は「実力名人制」という、実力本位の制度が敷かれているのですが、江戸期にあってはちょっと事情が違ったのです。今日はその話をしようと思います。
家職としての名人
現代こそ、一つの称号として機能している「名人」ですが、当時はちょっと今とは違う意味合いのあった言葉でした。
江戸期に入り、天下の主として君臨するようになった徳川家は文化事業についても保護を始めます。その中に碁や将棋が存在したのですが、そこで名を成したのが本因坊家であり、大橋家でした。当初将棋は碁と同じ碁所の所属だったのですが(本因坊家が碁と共に将棋もやっていたため)、やがて大橋家が本因坊家から独立する形で将棋のみの集団、将棋所を形成します。やがてその大橋家を中心に、大橋本家、大橋分家、伊藤家のいわゆる将棋家が形成され、この将棋三家の当主の中から実力のある者を生涯に亘り名人と仰ぐようになったのです。
現代の名人制とはまったく違いますよね。
名人戦というタイトルの中で、その年一番強かった棋士に与えられるのが現代的な意味での「名人」です。けれど、江戸期はむしろ将棋の家元の有力者に引き継がれる称号だったのです。
名人だからといって強いとは限らない?
そのため、実力名人制の現代とは違い、必ずしも名人の強さが明確に担保されているわけではありませんでした。
とはいえ、当時の将棋所もあまりに名人が弱すぎるのではよくないと考えていたのか、ある手段で以て棋力を保とうとしました。
ずばり、養子縁組です。
弟子が実子よりも優れた棋力を持っていた場合、将棋三家の当主は実子を廃してでも有力弟子に己の家を継がせたのです。実際、将棋三家の年譜を見ると、養子を取って存続している様子が見て取れます。と、このように家元名人制も実力を度外視していたわけではないのですが(そもそも江戸時代においては家名に比して跡取りの器量がそぐわない場合、養子を迎えるなんてことはよくあったことです)、現代の実力名人制と比べると、やや透明性が低いのは致し方ないことかもしれません。
家職の限界
とはいえ、将棋を家職にするということは、諸々の無理があるのかもしれません。
そもそも、将棋は二人零和有限確定完全情報ゲームに分類される(厳密にはそれが崩れる局面もあるのですが、まあそれはそれとして)盤上遊戯です。二人で行なう、片方の損益がもう片方の利益になり(逆もまたしかり)、有限の手数で終わり、偶然の要素がなく、すべての情報が開示されている、という意味合いなのですが、つまり将棋というのは、論理という武器をかざして無限の時を費やして考え続ければ、いつかかならず最善の答えに至ることができるゲームなのです。つまるところ、秘伝なんてものは成立しようはずもなく、あるとき何処かで天才が生まれればかつての定跡はひっくり返る、そんな世界です。言い方を変えると、下剋上しやすいということです。頂点を設けて下部組織を支配する家元制とあまりに相性が悪いものと言わざるを得ません。
また、江戸期も半ばから後半になってくると出版業が活発化し、定跡集や詰め将棋本も多数刊行されるに至ります。もはや、秘伝は秘密なり得ません。家元名人制は明治に入りパトロンである徳川家が倒れたことで終焉を迎えたとされていますが、実際の処、もっと前に命脈が絶たれていたといえるのです。
宗歩の生きた時代
天野宗歩の生きた時代は、まさに家元名人制と実力名人制のはざまにあたります。
未だ将棋所は健在で、家元名人制は維持されていながら、実際にはもう様々なところでほころびが見え始め、姿勢に目を向ければアマチュアの将棋指しがさかんに将棋を指している。新たな時代の風を感じながらも、古き時代の気配の中にまどろんでいた、そんな時代なのです。
天野宗歩にとって、この時代がよきものであったのか、それとも悪しきものであったのか。本作の軸の一つには、そんな問いが横たわっています。
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