犬がヒトと暮らすことを選んだ頃

はじめに

 「犬になる前の犬」がヒトと暮らすことを選んだ頃。犬がヒトのパートナーとなっていく時代の「ヒトの生活」について考えてみました。

 その時期については諸説あり、12,000年前のイスラエルの遺跡からヒトとともに埋葬された犬の骨が発掘されていますので、遅くともその頃には、オオカミと分岐してヒトと暮らす「犬」が登場していたと思われます。
 最終氷期(7万年〜1万年前)のヨーロッパでは、「ネアンデルタール人」と「ホモサピエンス」と「オオカミ」が限られた獲物を争っており、体格的にも体力的も勝っていたネアンデルタール人が絶滅したのは、「ホモサピエンス=ヒト」と「オオカミ(犬)」が共闘したからだという説もあります。日本においても縄文時代、犬は大切に扱われ丁寧に埋葬されています。中には、四肢骨に骨折・治癒痕のある例もあり、それは、その犬が歩けなくなって猟犬として役に立たなくなってからも食べ物をもらっていたことを意味しています。

 犬とヒトの間には、遺伝形質の変化をも伴う長い歴史があります。オオカミと犬の分岐前の祖先がヒトと暮らすことを選択し、犬へと進化していく時代。オオカミへと進化する種の目は、明るい虹彩の真ん中に黒い瞳孔が浮かび、集団での狩りにおける仲間同士での「視線」を使ったコミュニケーションに最適化していくのに対し、ヒトと暮らすようになった犬へと進化する種は、人間の白目にあたる部分が隠れ、虹彩だけが露出した大きな黒い瞳をもつようになりました。犬はヒトと、顔やその表情でコミュニケーションをとるように進化したのかもしれません。

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 犬がヒトと暮らすことを選んだ頃、最終氷期の最寒冷期を終えて、人類は温暖化する気候がもたらす自然の恵を享受できるようになり、世界各地で定住化が始まります。その人類の黎明期における人々の暮らしについて考察してみたいと思います。

時代区分

 日本ではその頃を縄文時代と呼びます。BC14,000年からBC1,000年の1万3,000年の間。旧石器時代を経て、土器と弓矢を発明し竪穴式住居に定住し貝塚を形成するようになりました。BC14,000年から9,500年の4,500年間を草創期、次の4,000年間を早期、次の2,000年間を前期、次の1,100年間を中期、次の1,200年間を後期、次の弥生時代と交錯する700年間を晩期と区分します。なんと、千年紀を13回もしのいできているんですね。

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出典:https://55096962.at.webry.info/201807/article_7.html

人口と居住エリア

 推定される縄文時代の人口は、早期は2万人。前期には10万人に、中期には26万人にまで拡大、それが後期に入り16万人、晩期には8万人にまで減少していきます。ただし、推移は数千年単位の緩やかなもので、人々は自然とともに生き、自然とともに死んでいました。ちなみに、その後の弥生時代では、59万人に拡大します。

人口の超長期推移

参考文献:

出典:http://bbs.jinruisi.net/blog/2013/12/001181.html

 縄文時代の住居跡の分布図は、こんな感じ。各地方ごとに気候変化の経緯とともに栄枯盛衰がありますが、関東、東北、東海、中部での遺跡の集中が見られます。

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出典:http://bbs.jinruisi.net/blog/2013/12/001181.html

環境と気候

 地球は、BC19,000年頃、5万年におよぶ最終氷期の最寒冷期を迎えました。地軸の変化、北極点の移動がもたらした北半球の日照量の増加にともない、北米大陸やヨーロッパ大陸の北部にあった現在の南極氷床の規模にも匹敵する厚さ数千メートルの巨大な氷が融解し始めます。北米、ヨーロッパ大陸では、海面が上昇した分、氷床の重石がとれた地表が隆起することにより海岸線の上昇は見られないのですが、日本では、年速1 - 2センチメートルで海面が上昇し、BC4,500年 - BC4,000年頃には、100メートルにも達し、海岸線を大きく書き換えてしまいます。これが、「縄文海進」と呼ばれる現象で、現在の関東平野の内陸部にまで海岸線が前進し、内陸部に多くの貝塚が発掘される要因となりました。

参考文献:http://quaternary.jp/QA/answer/ans010.html

貝塚

縄文海進の推定 ●は貝塚の位置 
出典:https://suido-ishizue.jp/nihon/18_ryoso/02.html

 折しもその頃、海底コア堆積物の分析から黒潮の蛇行が消えていたことが分かっています。暖かい海流が東京湾の奥深くまで入り込み、東日本の気候は、今よりも暖かだったと思われます。青森県の三代丸山の邑(むら)が栄えるのもこの前期中頃から中期後葉。暖かくなった日本の気候が、縄文の生活や文化を支えていたのではないでしょうか。

 中期以降、人口が縮小していくのは、気候の寒冷化によると推定されていますが、黒潮の蛇行もその要因のひとつかもしれません。また、現在の海岸線が低下しているのは、氷床が溶けて海に流れ込んだ水の重みで太平洋の海底がゆっくりと沈降した結果、マントルが陸側に移動し陸域が隆起したと考えられています。

 以下の日本列島の気候図の変遷から、海岸線と食料、建築材として縄文時代の生活に欠かせなかった「クリ」に注目してみてください。

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 旧石器時代、海岸線は後退しておりクリが生息する暖温帯落葉広葉樹林気候がまだありません。

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 海岸線の前進が始まり、広葉樹林気候が広がっていきます。

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 前期から中期にかけて、人口が11万〜26万人に増加する最盛期。海岸線は内陸に入り込み、中部高地、東北に広葉樹林気候が広まります。

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 寒冷化する気候の中、広葉樹林気候地域が狭まり人口も減っていきます。

出典:http://web.joumon.jp.net/blog/2011/05/1249.html

文化と暮らし

 縄文時代の人口の推移、居住エリア、環境と気候につてイメージがつかめたところで、縄文が生み出した創造物について見ていきましょう。

 まずは、中期、信濃川中流域を中心に300年間の間、作られた火焔型土器と王冠型土器。こちらは教科書などで見た方も多いと思います。火焔型土器は「炎」を、王冠型土器は「水流」を擬(もどき)として造形されているようにも思えます。

火焔型土器と王冠型土器

出典:http://web.joumon.jp.net/blog/2011/02/1200.html

 そして、やはり中期に制作された人面土器。火焔型や王冠型の抽象的な表現とは違った物語性を感じる造形です。縄文中期には、各地の文化圏それぞれでの造形ムーブメントが生まれました。

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 土偶たち。出土されたものだけでもこれだけのイマジネーションとバリエーションがあるのですから、失われたものたちも含めると、土で形を造ることは縄文中期の人々の生活の一部であり、ヒトなのか精霊なのか、自然の中に息づき、まるで八百万の神々との暮らしのように、暮らしとともにある多様な表現が謳歌されていたのではないでしょうか。


土偶

出典:http://kousin242.sakura.ne.jp/wordpress016/美術/美術史/日本美術/縄文期/土偶/

 三代丸山遺跡は、縄文時代前期中葉から中期末葉、今から約5500年~4000年前の1500年間にわたり定住生活が営まれた大規模集落の跡地。500人規模の人口があったと言われます。大規模な建築やクリなどの栽培、日本海側の邑々との交易などが行われていました。

三代丸山

出典:https://ameblo.jp/sayakani358/entry-12403776491.html

 食べ物も季節ごとに豊富な食材を土器や石器を使って調理していました。

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出典:https://plaza.rakuten.co.jp/jubilonhh/diary/201905190000/

 黒曜石、翡翠(ヒスイ)などの出土分布から、縄文時代の交易状況が推察されています。定住し、その地の特性を熟知し、自然の恵みを余すところなく採取する生活を営みながら、土器や土偶の造形様式を育み、おそらくファッションや化粧においても、その地域のアイデンティティを培ったであろう人々とともに、黒曜石や翡翠、サヌカイトやアスファルトなどの希少な素材を携えて、同時代の邑々を渡って行った者たちもいたようです。

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出典:https://yamatake19.exblog.jp/20056562/

その頃の世界

 その頃、世界ではどうだったのでしょうか。
 学校で習ったはずなんですが忘れてしまった世界の四大文明を見てみましょう。

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出典:https://gakumongakumo.club/sekai-kodai/

中国(黄河)文明
 BC5000年頃からBC4000年頃にかけて、黄河の中流域の黄土地帯でキビ、ヒエ、アワなどの雑穀の栽培が始まりました。仰韶(ヤンシャオ)文化と名付けられたその文明は、彩文土器(彩陶)を作り、磨製石器を使用して、竪穴住居で生活、豚や羊、山羊や牛などの動物を飼っていました。もちろん、犬もいたようです。
 次いでBC3000年代になると、黄河下流に黒陶を特徴とする竜山文化が出現し、やがて、BC1700年ごろには、高度な青銅器鋳造技術を持ち、亀甲文字を使う殷王朝が黄河中流に現れます。

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引用:https://www.y-history.net/appendix/wh0203-006_0.html

仰韶(ヤンシャオ)文化
黄河土器

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インダス文明
 BC7000年頃、インダス川流域の西方のバローチスターン丘陵地帯で、メヘルガル遺跡を中心に、日干しレンガの家に住み、小麦や大麦、ナツメヤシを栽培、羊・山羊・牛の飼育が行われていました。BC3000年初頭には、インダス川流域の肥沃な平野に大集落が形成され、その一つのハラッパーはやがて都市に発展し、初期インダス文明が形成されます。
 BC2500年頃からBC1500年頃には、インド西北(現在はその大部分はパキスタン)のインダス川流域に、モエンジョ=ダーロやハラッパーなどの都市文明が形成されます。街路が整然と東西南北に並び、家屋は焼煉瓦造りで、下水・井戸・浴場などの衛生施設を持ち、沐浴場や学校、公会堂や倉庫などもありました。インダス川を利用した潅漑農業と、水牛、羊、象などの家畜。彩文土器、青銅器が使用され、象形文字使われていました。メソポタミア文明との交易があったと思われます。

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出典:https://www.y-history.net/appendix/wh0201-001.html

   メヘルガル遺跡からは土偶が出土しています。

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出典:https://54678725.at.webry.info/201105/article_4.html

メソポタミア文明
 BC7000年頃。肥沃な三日月地帯のジャルモ遺跡などで、天水による農耕文明が生まれました。土器の使用、ムギの栽培、羊などの牧畜、日干し煉瓦による住居での定住生活が始まります。
 BC6000年頃には、定期的な洪水が起こる地域から潅漑農業が始まり、BC5500年頃、メソポタミア南部の乾燥地帯にウバイド文化が登場。ここでは灌漑技術が用いられたと考えられ、大規模都市が形成されていきます。
 BC4000年頃に登場したウルクをはじめ、このメソポタミア南部の都市文明を成立させたのはシュメール人です。シュメール初期王朝時代(BC2900~BC2335年頃)には、20ほどの都市国家が形成されました。最高の神官・戦士でもある王を中心に神権政治がおこなわれ、神殿や宮殿、王墓などを建設し青銅器や楔形文字を用いた文化を産みだしました。
 その後のアッカド人に征服され、政治と戦争に翻弄されていきます。

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ジャルモ遺跡 出典:こちら

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ウバイド文化 出典:こちら

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出典:http://eurekajwh.web.fc2.com/kougi/kougi/nisiA/ori02.html

エジプト文明
 BC6000年-BC5000年頃から次第に乾燥化が進み、人々は次第にナイル川流域に住むようになり、メソポタミア文明の影響をうけて、BC5000年頃から潅漑農業による農耕・放牧文明に入ります。

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 ノモスという小国家の分立を経て、BC3000年頃、ナイル川流域にエジプト古王国が成立しました。ヒエログリフの文字体系が確立し、太陽暦(シリウス・ナイル暦)が普及します。農耕が始まるのはメソポタミア文明の後になりますが、統一国家の形成はそれに先行しています。


振り返り

 縄文時代の前期から中期にかけて日本の人口が11万人から26万人に拡大したBC5500年からBC2400年。黄河文明では、仰韶(ヤンシャオ)文化、竜山文化が勃興、夏?殷王長に繋がっていき、インダス文明では、ヘルガル遺跡で小麦の栽培や放牧が始まり、メソポタミア文明では、灌漑技術を用いた農業による都市が形成され、青銅器や楔形文字の使用に至ります。そして、エジプト文明では、BC3000年には国家による統治が始まります。

 人類史的には、各地で土器が発明され、植物の栽培、動物の飼育が始まった時期であり、青銅器が前後して使われるようになります。特筆すべきは、メソポタミアにおける灌漑農業の登場とエジプトやメソポタミアにおける国家による統治、文字の発明でしょうか。農業を基盤として農耕を管理する組織、都市の発生、国家が登場し、ヒトの生活は激変していきます。

 日本でも縄文から弥生へのシフトは、同じステージアップを経験します。グローバル化した現代とは違い、デジタルネットワークも映像や印刷技術もなかった時代に、数千年の前後はあるものの同時多発的に人類はステージを切り替えていきます。

 犬がヒトと暮らすことを選んだ頃、犬はヒトのこんな未来を予期してはいなかったでしょうね。都市に住むヒトと共に住む犬たち、田舎に住む囚われたままの犬たち、過剰な品種改造。オオカミとして絶滅に瀕するのか、犬としてヒトの業に巻き込まれるのか。犬の選択が一匹でも多く報われんことを祈ります。


おまけ

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 中国の新石器時代の遺跡からは、犬の骨が大量に出土しています。これは犬を食用として大量に飼育していたためで、黄河流域にも長江流域にも犬食文化は存在していました。しかし、狩猟や遊牧を主たる生業とする北方民族は、犬を狩猟犬として、或いは家族や家畜群を外敵から守る番犬として飼っており、犬肉を食べません。家族の生業や安全に寄与する生活の仲間であり、家族同様だったからだと思われます。


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インダス文明
モヘンジョダロ遺跡出土 出典:こちら

 メソポタミアの宗教は多神教で、天、太陽、月、星等の天体や水、嵐、大気等の自然物が神格化されたほか、愛、戦争、豊穣、治癒などといった抽象的概念も神格化されました。メソポタミアの神は、初めから人間の姿で表されましたが、通常の人間と区別するために、神の頭部には神格を表す角冠が付されました。また神ごとに神を象徴する動物があてがわれており、イシュタル女神のライオン、月神シンの牡牛、太陽神シャマシュの牛男(人面牡牛)、イシュハラ女神のサソリなど、そして、治癒神グラは犬でした。

出典:https://core.ac.uk/download/pdf/143632004.pdf

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メソポタミア文明
出典:https://www.karakusamon.com/orient/nNippur_stone.html

 古代エジプトでは、死をつかさどるアヌビス神と死者との間を犬が仲介すると信じられていました。アヌビス神は半人半獣の姿で犬の頭を持ちます。

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エジプト文明
出典:こちら

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縄文時代
犬に選ばれた頃のヒトの暮らし
出典:http://kensstation119.sblo.jp/article/41573781.html


おまけのおまけ

 2012年に米国「National Geographic」に掲載された記事。85種類の犬の遺伝子を分析し、犬の遺伝子を「番犬系」「猟犬系」「牧羊犬」「オオカミ系」に区分した場合、芝犬が「オオカミの遺伝子」を最も多く持っている。というレポートです。

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 オオカミ系に属するのは東アジアの犬が多く、「イヌは東アジアに起源を持つ」のではないかと『オオカミと野生のイヌ』には書かれていますが、芝犬がオオカミと共通の遺伝子を多く残すのは、最後にオオカミと分岐し、人為的な品種改造が少ないと考えた方がいいような気がします。日本ではずっと神様の使いでもありますしね。

終わり






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