#エッセイ『“知ること”と“分かること”』

 高校時代から浪人時代にかけて受験勉強で数学と物理を一生懸命学んだ記憶があります。当時は“しんどいなぁ”と思い、早くどこかの学校に入りたいと思いながら勉強をしていたのですが、今となっては懐かしい思い出です。人生ではしんどかったことも時が経てば少し美化されるというよくあるやつです。
 自分なりに苦労をしたからでしょうか、今でも時々当時の受験勉強の内容を思い出したりします。なぜか仕事帰りの混雑する電車で座れたときなんかに思い出したりするのです。そんな時は大体、横の席で参考書を開いている学生を見た時なんですけね(笑)。学校を卒業して以来物理なんかは学んだことは無いのですが、そんな時に思い出すのはなぜか力学の運動方程式だったりするんです。まぁ、運動方程式は物理の基本的な事ですし、印象に残り易かったのでしょう。そしてその運動方程式は、

 F(力)=M(質量)Xa(加速度)

と表記されます。受験にいそしんでいた当時から『これってなんか変だよね・・・』とぼんやりと思っていたのです。これは運動の三法則というやつの一つで、確か定義という決まり事なんですが、当時の僕には、よくよく考えると“物の重さ”と“物の速さ”(正確には加速度で、速度の変化分ですね)を掛けるってなんだ?となるのです。おそらく当時はこの“定義”という言葉の意味や使い方が今一つ分かって無かったのでしょう。そうなるともう“あんた、そりゃ国語力の問題だよ!”と言われかねませんね!そして受験勉強も何年もやっていると、色々な所で色々な先生に同じことを何回も学ぶのですが、どの先生も大体サラッと
『これは定義です。』
とか
『これは決まり事です。』
という言い方をするのです。それでも、どれだけ“定義ですから”と言われてもなぜか当時の僕は無理やりにでも“質量”と“加速度”をかけた何か目に見える様な物やもしくは、なんだったら手に取って検証が出来る様な物を考えてしまっていたのです。もちろんこんなことを言えば、物理の先生たちやこの学問を縦横無尽に使って仕事をしている人たちに『ふっ!』と鼻で笑われてしまうでしょうが、当時の僕は大まじめです!参考書の解説図を見ると直方体の箱を引っ張る様な絵と共にベクトルの図が書いてあったりします。その図を見ても何となく分かるようで分からない・・・一瞬でも分かったつもりになってもやっぱ何か分からない・・といった事の繰り返しでした。そして分かったつもりになって、いざ先生や友達に言葉で説明しようとしても説明が出来なかったりしたのです。当時の僕はある意味もうパニックでしたね!“そもそも500㎏のコンクリートの塊を俺が押しても1ミリも動かないじゃん!俺スゲー力入れてるよ!そん時動かないならさ、加速度は0じゃん!じゃあその力Fは500㎏X0でF=0かい?!”そんな事を真面目に考えたりしていたんですね!当時の僕はもう落ちこぼれまっしぐらです(笑)!知識の隙間に落っこちているといった状態だったのでしょうね。あの当時は自分が理解できないことにやっぱりイライラしていたのでしょう。クラスの友達と物理について話していた時に
『質量X加速度が力だってさ!なんだよなぁ!訳わかんねえよな!じゃあ、牛乳Xコンクリートは何になるんだよなぁ!それも答えてもらおうじゃないのよ!』
なんて言って笑いを取ろうとしたら・・それを聞いた友達は真顔で
『オマエ頭おかしいんじゃねえか??いーじゃん!いーじゃん!そんな固く考えないで適当に覚えちゃえば・・』
とドン引きされる始末でした。こっちは笑ってもらおうと思って言った程度だったのですが、単に恥をかいて終わったというちょっと苦い記憶もあります。今思えば僕のその例えも上手くなくて、運動方程式では“重さ”と“速さ(の変化)”という違った物理量を掛け合わせているのですが、牛乳とコンクリートは同じ重さという物理量ですからね。もう今考えると恥ずかしい限りです。
 そんな事を言っても入試には受からないと話にはなりませんので、当然のごとく尻に火がついてくると当時の僕もそこは都合よく丸暗記したんですね。ところが受験勉強を進めているうちに、“分かったつもりでもいいや!”と思える出来事があったのです。一浪の夏に駿台予備校で物理の夏期講習を受けた時の事です。当時の駿台で人気講師だった坂間勇先生という方がいらしてその先生の講座を受けたのです。その先生を知っていらっしゃる方も多いかとは思うのですが、まあ何しろ黒板に書く字が汚いんです!広い黒板を右へ左へと歩きながらゴチャゴチャ書くからその板書はいつもエラいことになっていました。また教え方もユニークで、
『私が解説をしている時はノートを取らずにしっかりと黒板を見ながら聞いてください。そしてお家に帰ってから自分でノートを作ってください。』
と言うのです。その指示に従って膝に手を置いてじっくり先生の解説を聞いているとどうでしょう、難関大の問題でも不思議な事に何かスッと理解できた気になるのですね。そして家に帰ってから、いざ自分のノートを作ろうと思ったら・・・“あれ・・なんやったかかいな・・”という始末です。今でも覚えているのですが、その坂間先生は力学の問題を解説する時に必ず運動方程式を黒板に書くのです。その時F=mxaと書きながらイコール(=)の部分で必ず
『なぜなきイコール・・・』
と言いながら書くのです。要は理屈じゃなくて決まり事です!と言いたかったのでしょう。考えても仕方のない事です、と言っていたような気もします。確かにそこでずっと躓いているわけにもいかないので、先生のその言葉を聞いてから、それはそれで受け入れていったような記憶があります。多分ほかの先生たちも同じ様な事を言っていたのでしょうが、なぜか坂間先生の言葉だけはスッと入ってきたのですね。
 しかし不思議なもので、他のゲームや仕事などでルールや約束事などだったらスッと受け入れられるのに、なぜこの運動方程式の約束事(定義)については受け入れられなかったのだろうかと未だに思うのです。それはおそらくですが、この教科をキチンと自分のものにしたかったというこだわりがあったのかもしれません。当時の僕はそのこだわりがあまりにも強かったために何としても完璧に理解をして次に進みたかったのだと思うのです。でも僕にとっては学問とは不思議なもので、特に数学などを学んでいる時によく思ったのですが、最初はそのルールや定義が何だかよく分からなくても、何回も同じような問題を解いていくうちにその公式や基本的な説明(定義だったりするんのですが)を自分なりに理解が出来ていたりするものです。ただ、この運動方程式では定義という言葉にも惑わされたのか、それが出来なかったのですね。そして、上にも書いたのですが、定義という言葉の意味が実はよく分かっていなかったのでしょう。おそらく当時の僕は時と場合によっては定義の約束事が理屈で成り立っているくらいに考えていたのかと思います。だからこそ、せっかく始めた物理の一番初めに出てくるこの運動方程の根拠が知りたくてたまらなかったのでしょう。約束事は単なる取り決めなんですけどね・・。あの当時の自分に言ってやりたいもんです。
 そういう意味では言葉を覚える事と、その意味を正確に理解しておくことは本当に大切な事だと思うのです。受験生の頃にこの“定義”という言葉の意味をもっと噛みしめていたら、またその他の言葉についても同じようにその意味を身に付けていたら僕の人生も少し違った形になっていたかもしれません。でも、それもこれも含めてその当時の、そして今の自分になっているのでしょう。そういった意味合いでは、人生でキチンと知識と常識、そしてそれらを使った経験を積み上げるというのは本当に大切なんですね。
 かつて僕がまだ子供だった頃、両親のとある知り合いの老人で“賢い”といわれた人がいました。その人がどう賢いのか知りたくて親に質問をしました。
『あのおじいさんはどう賢いの?』と聞いたら僕の親は一言
『言葉をよく知っている人だ!』と言っていたのをよく覚えています。この会話を今思い出して考えると、言葉を知っているという事で物事をキチンと説明したり説得が出来るという事を言いたかったのでしょう。だからこそ、言葉を知っているという事でその老人を賢いと表現したのだと思うのです。
 しかし、せっかく言葉を覚えても、頭の中で思い描けている事を言葉にする事が難しいという事があります。子供の頃にそういう経験をされた方は多いのではないでしょうか。僕は今でもそういう事を感じる瞬間があります。“言いたいことはこれこれなんだけどな・・”と頭の中で思い描けているのですが、言葉にならない・・そんな時はイライラしますよね。かつて日経新聞で米沢富美子教授という日本人の物理学者がこんなことを書いていました。彼女自身で研究をした内容をいざ論文に書こうと思った時に、頭の中では全ての理屈が繋がっていて分かっているのにそれが数式と文字で表現する事がどうしても難しいというのです。米沢教授はいくつもの世界的な業績を上げている碩学なのですが、そんな優れた先生でも時と場合によっては自身で考え抜いた事を表現するのに悩んだというのです。これは言葉や数式を熟知してもそれを駆使して扱う事の難しさを示していると思うのです。そうなれば僕ごときが言葉に振り回されるのも当たり前かと思ってしまします。
 そして最初に書いた運動方程式です。この式が力の在り方を示しているという事は受験勉強当時から知ってはいたのですが、定義によって“こう定めている”という事は最近になって腑に落ちるように分かる事が出来たように思うのです。おそらくは僕自身が自分なりの人生経験を積むことによって定義という言葉の意味が当時よりももうちょっと深く自分なりに掴めたからなのかな?と思っています。おそらく多くの人が色々な分野で“知る”と“分かる”という違いを人生のタイムラグを通じて噛みしめているのではないでしょうか。そんなことがもしあれば是非教えてください。それは僕にとってはすごく気になりますし、また参考になる学びになると思うのです。

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