#エッセイ (政治・経済)『戦後の日本とアメリカ』

 私たち日本人が日常の会話で使う日本語には”水に流す”という言葉があります。映画やドラマの中で『今までの事は水に流してまた共にやっていこう・・』なんていうセリフも時折耳にします。どうやらこの水に流すという考え方は私たち日本人の独特の文化のようです。では外国人にはそういった発想は無いのでしょうか?おそらくはそんなことは無いと思うのです。欧米人だって喧嘩をしていつまでも相手を許さなかったら大変です。夫婦喧嘩をして相手を許せなければ、多くの外国人夫婦は離婚をしないといけなくなります(欧米の離婚率は日本より高いそうですが・・・)。そういう意味では人が他者を許すという事は文化以前の事なのかもしれません。
 しかし、国単位、もしくは民族間で考えると、どうやら私たち日本人は他国や他民族に対してかなり寛容的な様に思えるのです。それを一番感じる事として例えに出すならやはり戦後の日米関係でしょう。今から約80年前に日本は第二次世界大戦でアメリカと太平洋上で戦いました。お互いの兵士が殺しあったのです。そして私たちの国は完膚なきまでに打ちのめされたのです。昭和十年代の前半より前に生まれた世代の人たちにとってのアメリカは、『戦争に負けた上に二度も原爆まで落とされて憎い・・』という感情を戦後しばらくは抱いていたことでしょう。またそれとは逆に戦後の復興期においては、優れた商品や文化が洪水のように押し寄せて、ある種の憧れですら抱いていたのではないでしょうか。アメリカに対する憎しみと憧れというねじれた感情が交錯していたのではないかと思うのです。そして世代が下って行くにしたがってアメリカに対するアレルギー的な感情を持っている人はあまり見受けないような気がするのです。
 戦後の日本は未曽有の成長を遂げ、敗戦から19年後の1964年には首都の東京でオリンピックを開催するところまで漕ぎつけています。これは勿論その世代の働き盛りの日本人がモーレツに頑張ったという事もあったのでしょうが、日本人の頑張りだけでは戦後の復興はどうにもならなかったと思うのです。どう考えてもアメリカの政府と民間ぐるみの後押しがあったという事は事実です。朝鮮戦争を境にしてアメリカは対日政策を反転させました。その頃の日本は朝鮮戦争による特需景気で沸いていましたが、アメリカはそれよりも早くに日本の経済力を早くに回復させるために、日本の国際社会復帰に全力を尽くし、あの手この手で外交と経済政策にテコ入れをしました。早くも戦後6年目の1951年にはサンフランシスコ平和条約により西側社会の国々と講和を結び、1952年にはIMFに加盟、そして1955年にはGATTに加盟を果たして戦後の高度成長期へと続いていくのです。イギリスをはじめとする欧州各国では戦争中の日本軍の生々しい記憶が強烈に残っていた為か対日支援には消極的でしたが、しかしこのような感情のしこりがあってもアメリカの強烈な後押しでそれらの事が実現したというのが本当の所でしょう。そして米国は日本の経済を早くに復興させるために東南アジアとの貿易の道を探すのですが、戦後の東南アジアでは十分な購買力も無いと見るやアメリカの国内市場を開放し、経済力を付けさせたのです。
 では、なぜアメリカは戦後の日本を助け育てたのでしょうか?アメリカがとりわけ日本の事を好んでいたとは思いません。戦後の東アジアにはソ連という広大な社会主義国家があり、当てにしていた中国も社会主義になってしまいました。また東南アジアでは戦後の混乱が続く最中で、このまま放っておいてはそれらの地域が雪崩を打つように社会主義国家になってしまう恐れがあったのでしょう。太平洋で資本主義のブロックがなせなければアメリカの政治的権威も経済の先行きもままならないと思ったのでしょう。アメリカはそれを朝鮮戦争の時に初めて身に染みたのでしょう。そうなると太平洋に面した東アジア全般を眺めると消去法的に日本をパートナーにするしかなかったのだと思うのです。アメリカによる日本の復興計画は平たく言えばアメリカの国益に他ならなかったのです。そういうった事を考えると、当時のアメリカ、特に政府関係者は日本との戦争を”水に流す”という感情で見ていたのではなく、あくまでも未来の利益を取りに行ったのでしょう。逆に日本は戦争に負けたという事もあり、進駐軍の指示とあれば聞かざるも得なかったのでしょうが、それにしてもいとも簡単に、あっさりとアメリカの描いた方針に沿えたのはやはり”水に流す”という日本人の感性の為しえた業だったのだと思うのです。
 しかしそれを日本国内だけで見れば、そう簡単に受け入れたとも言い難かったと思うのです。戦後直ぐの日本国内は大混乱で、多くの人は日々の食事にも困り、住むと所も着るものも充分ではなく、国民の大半が等しく皆貧乏でした。そのような状況では多くの国民にとって社会主義ないし共産主義が光り輝いて見えたのでしょう。また戦後のGHQの命令による米軍主導で設置された警察予備隊(現在の自衛隊)の発足は逆コースといわれ、当時の日本人にとっては戦前を思わせる再軍備であり、それを嫌がったその当時のインテリ層だった学生と知識人は政府の方針に反動形成をするように左寄りの考えを持つことになりました。アメリカにとってみればそれは大変です。日本までが社会主義になれば太平洋岸の東アジアは全滅です。その意味でもアメリカが事を焦ったのも良く分かります。現在の視点から見れば時の政府に抵抗した人たちは不満分子という事になるのでしょうが、当時はかなり多くの日本人にとっては大きな問題でもあったのでしょう。そこから続く系譜なのかは分かりませんが、学生を中心として安保闘争から学生運動に転化していくとう感覚が50年代後半から60年代一杯の日本の空気感のようです。ですが、当時の騒動を資料などで読むと、やはり意外な一面が見えてくるのです。安保闘争の時に国会前でデモをする学生達の存在についてマスコミから質問を受けた当時の岸首相は『後楽園球場を見てください。今日も巨人戦は満員です。』と返したそうです。それは何を意味していたかと私なりに考えると、多くの国民は安保問題に関心はあったけど行動を起こすまでの賛同も無かったという事だと思うのです。要はアメリカに対して戦争に負けた恨みとか、戦後の占領に対する不満や憤りが無いわけでもなかったのでしょうが、それ以上にその時にはもうすでにアメリカに対する嫌悪感が無くなっており、目に見える国の経済発展を良い事として受け入れていたという事なのでしょう。その当時にはすでに多くの日本人の中にもう”水に流す”という感性で受け止めていたのだと思うのです。いうならばそれが国民の主流派だったのです。大きな視野に立って見るとやはり日本人の特性がその時代にも発揮されていたと思うのです。
 現在の日本人の目から見ると、現状の日米関係は強固なものに見えていると思います。もちろん私もそう思っています。今日に至るまで、日本とアメリカの間にはいろいろな問題があった事も事実です。戦争と戦後の占領、そして復興へと続き、日本の経済力が世界第二位になった頃からは、プラザ合意にともなうドルの切り下げと円高、それにセットとなっているような日米貿易摩擦・・・(日本の国内だけでいうならバブル経済の発生)と決していつでも平穏な友好関係を維持してきたとは思えない一面もありました。それでも日本は基本的にアメリカと歩調を合わせるようにして戦後の世界で歩んでいます。先ほども書きましたが、アメリカにとっての対日外交は、他国に対するそれと同じで基本的にはアメリカ自身の国益の為です。国際外交においては友好という言葉は表向きで、そこに利益があるかという事が基本です。そういった意味では私たちの国はアメリカとの付き合い方にもう少し慎重な姿勢があってもいいのかも、と思うのです。戦後の日本にとっては利益一辺倒の関係でしたが、もう今の時代ではそうもいきません。”水に流す”という精神で上手くやってきた感はありますが、そのアメリカも時には豹変した時もありました。また日本がアメリカ以外の他国との関係を考えるなら、戦争等による歴史観で決して“水に流す”という発想を持たない中国や韓国にはどう対応していくのか、それらの国とどうやってお互いの利益を見出しながら手をつないでいくのかが気になって仕方がないです。

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