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私が私として息をするためには小さい言葉を語ることができる場所が必要なんだわさ、という駄文

湯川さん 押田さん

すっかり忙しさにかまけ、返信が遅くなりゴメンナサイ(これまで一日一通ペースで来てたのに、一気に一週間も空けてしまった不届き者は私デス。)


湯川さんの返信を見て、今はまさに、あらためて「暴力」の時代なのだと思った

観測されなかった人生、というところから話題を広げていただきありがとうございます。私の前のターンである湯川さんの返信は面白かった。と同時に難しかったなあ。「言葉が残ってしまう」という現代の構造が、本来の優しい「肉声」を阻んでいるのではないか??という指摘(だいぶ丸めてしまいましたが)は確かにそうだなあと。

最近は、なにか不祥事や「不適切な書き込み」があっても、いちどインターネットの海に投げ込んだら、なかったことにはできない(たとえ削除しても削除前の投稿はいくらでも補足されてしまう)。また過去に限らなくても、メディアやSNSで「不用意な肉声」を出してしまうことで炎上してしまうこともある。言いたいことも言えないこんな世の中じゃ・・・という気持ちにさせられます。
同時に。「じゃあ何でもかんでも言おうぜ」ということも極端な暴力で、インターネット上の暴力は、数多くの人の命を奪っています。

本当に心が痛みます。痛むし、塞ぎます。あーもうこれどうしちゃったらいいのかしらって。

でもきっと、こうした現象に名前が付き、研究され、多くの人に言及されてていることは、良い兆候だと思います。馬鹿みたいに楽観的に言えば、人類史という単位でみれば、言葉の暴力でまみれていた時代はやがて「過去」になるように、私たちは少しずつ賢くなるはずです(そのときには私は死んでるかもしれませんけれど・・・)。

事程左様に、私としたところが「確かにそうだなあ」という以上の感想が出てこないところにオツムの限界が露呈されてしまっているわけですが、どうかお許しいただければと思います。

「肉声」というのは小さい言葉・物語なのではないか?ゆえに常に負けるものである

私は前にも書いたように「観測されなかった人生」とか、「日記」とか、断片的で、個人的で、オチもない、そういったものが好きな傾向があります。特に最高なのが内田百閒とか武田百合子とかですが、本当に日々の日常だけを綴って面白いので最高なんですけれど
「だから何なんだ?なんの意味があるんだ?」と聞かれると「別にどうもない。意味もないよ」と答えるしかないようなものなんですよね。

人がなにを食べているとか、どこへ行ったとか、誰と会ったとか、本当に「だから何なんだ?なんの意味があるんだ?」のものなんですが、とにかく好きなものは好きなんですワ。

でもおそらくですね、こういったものは戦争が起きたり、戦争まではいかずとも震災とか、国を上げた一大事が起きると、真っ先に否定され、負けるものです。なぜなら意味がないし、正しさも言えんワニ。

芸術や文学は「小さな言葉」を乗せることのできる器ではないか

「大きな言葉・物語」に対する「小さな言葉・物語」の大切さはいろいろと語られるわけです。
村上春樹が語っている「システム」に対する警鐘もこの類なのかなと思うわけですけれども(例えばエルサレム文学賞受賞時のスピーチが有名ですが)

もし、硬くて高い壁と、そこに叩きつけられている卵があったなら、私は常に卵の側に立つ。
そう、いかに壁が正しく卵が間違っていたとしても、私は卵の側に立ちます。何が正しくて何が間違っているのか、それは他の誰かが決めなければならないことかもしれないし、恐らくは時間とか歴史といったものが決めるものでしょう。しかし、いかなる理由であれ、壁の側に立つような作家の作品にどのような価値があるのでしょうか。
(略)
しかし、それが全てではありません。もっと深い意味を含んでいます。こう考えてみてください。多かれ少なかれ、我々はみな卵なのです。唯一無二でかけがいのない魂を壊れやすい殻の中に宿した卵なのです。それが私の本質であり、皆さんの本質なのです。そして、大なり小なり、我々はみな、誰もが高くて硬い壁に立ち向かっています。その高い壁の名は、システムです。本来なら我々を守るはずのシステムは、時に生命を得て、我々の命を奪い、我々に他人の命を奪わせるのです-冷たく、効率的に、システマティックに。

https://www.kakiokosi.com/share/culture/89

個人の肉声とか生活記録といった「小さな言葉・物語」は、それ自体では意味を持たないものです。意味を持たないし、力も弱いし、正しささえ(正しいかどうかという文脈では)語ることはできません。
だからこそ大事なのだし、だからこそ「大きな言葉・物語」に対するカウンターになり得ると私はひそかに思うわけです。
どのようにカウンターになるのかはわかりませんが(そして大きな物語が台頭してきたときには絶対に負けて弾圧されてしまうけど)。

僕は小説を書くんですよ、というのは書簡の一通目に書きましたが、僕がなぜ小説を書くのか、というのは、おそらく小説という形式でしか、自分の「小さな言葉」を出せないからではないか、と思っております。

芸術とか文学は、こういう「意味や正しさを持たない小さな言葉」の器になり得るもので、その器でしか息のできない魂もきっとあるんじゃないかなと思いますわね。

警句

などと、、、なんか芸術家気取りのエラソーなことを語ってしまいましたが、私は、自分の頭の悪さゆえに、ポピュリズムとか、センチメンタルな物語を出されるとコロッとやられてしまう危うさも自覚しています・・・。

アー、俺って本当に俗物だな、嫌だなって、同時に思うわけですので、これ以上カッコつけたこと言うと飛び蹴り食らわすぞ!オラ!と自分にツッコミを入れる形で、バトンを渡させていただきますね。ご清聴ありがとうございました。

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