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「感情」が削られる感覚が続いていた私に、尊重するけど無関心なのが支援だと教えてくれた人々について

 VUCA、世界を揺るがす感染症、戦争、残虐な事件…。様々なことが重なって、最近何に触れても「感情」が削られているようで、少し自分自身疲労していました。
そんな中、その疲労する心に対して「尊重するけれど無関心でいることが逆に支援なのだ」と教えてくれた人々、本、オンラインセミナーがありました。それをちょっとご紹介します。
2600文字を超える記事で5分くらいかかります。長くてごめんなさい。

「すべてがリアルショー化していく今、”感情消費”と距離を置いてみる」

講談社WEBマガジン mi-molletミモレ のばたやんさんがおススメの本と神フレーズを紹介してくれるポッドキャスト「聴く読書会」。この中に「すべてがリアルショー化していく今、”感情消費”と距離を置いてみる」というエピソードがあります。

今やSNSを含むメディアは「事実」より「感情」をメディア化するようになりました。被害者・加害者・スポーツ選手・政治家・・・・・事実とは関係なく、「お気持ちの表出」がニュースになり、コンテンツとなり、みんなでそれを消費する。
「お気持ちの表出」があるからこそ、我々は遠くに感じていた人も身近に感じるようにもなりました。
例えば、女優さんは昔は遠い女神のような存在ではありましたが、今は手の届きそうな憧れな存在。それはメディアで女優さんの感情「=お気持ちの表出」や生活があらわになるからこそだと思います。
 しかしながらその反面、SNSではその「お気持ちの表出」に共感するのかしないのか、共感できないものはたたく、というような風潮が少し強い気がします。
 
 この、どこからも溢れ出される「お気持ちの表出」が、私にはちょっと自分の感情が削られる感覚なのかもしれません。このポッドキャストに紹介された本がありました。

「感情化する社会」‐大塚英志氏

ここでいう「感情化」というのは、感情を表に表すということではなく、もっと広義的な意味で語られています。感情というものが、社会の価値判断の最上位となり、感情による共感が社会システムとして機能する状態のことをおっしゃっています。
例として、平成天皇のお気持ち発表をこの本ではご紹介しています。
生前退位に際して平成天皇がお気持ちを表明し、そのお気持ちに国民が圧倒的に共感。この本では他の事例も踏まえ、何についても誰に対してもみんなが「お気持ち」を求めそれを判断基準の最上位とする、そしてそれをみんなで消費する社会の危険さを語っています。
ミモレのポッドキャストで紹介されていた神フレーズは下記です。

政治的政治的ニュースから、タレントの不倫、Instagramの写真から、猫の動画まで、そしてあらゆる商品への反応も含め、私たちは感情を瞬時に発露するように訓練づけられている、かくもWEBでは人は「感情の発露」という形の労働を常に求められているといえる。それだけでなく、あらゆる形で人は自分の「生」をプラットフォームに置いて、無償のコンテンツとして提供し続けていることを求められる。創作や消費だけではなく、生きることそのものが私たちがWEBとつながった瞬間、フリーレイバー化しているのだ。

「感情化する社会」大塚英志氏

もともと、海外の方に比べて、日本人は感情や心情を表面化することが得意ではない傾向があります。感情を表に出さないことが美徳ともされていました。それが情報化社会になり、メディアやSNSの浸透で、一気に環境がかわり「お気持ちの表出」感情を表面化・発露することが波の様に押し寄せ、そこに疲労してしまっているのかもしれません。
フランス人の友達に言わせれば「それは相手の価値観でしょ。私はそう思わないし興味もない。」と平気に無関心でいられます。我々日本人は、違うことが良いと教育されてこなかった為、違うことも無理に受け止めようとしてしまうのかもしれません。

今悲しかったり怒りを感じたり、心が落ち着かない人へ

 そんな時、オンラインで生放送を拝見させて頂いているSchooでこんなセミナーがありました。
Schoo『半径3メートル以内を幸せにする(第54回)今悲しかったり怒りを感じたり、心が落ち着かない人へ』講師 本田晃一 氏

https://schoo.jp/class/4744

Schoo 「3メートル以内を幸せにする」 本田晃一さん

この講義の中で、私が学んだことは2つ。

まず1つ目はこの感情が出てくるのは、自分のことからなのか相手のことからなのか考える。もし相手のことから出てきている感情ならば、相手を変えることはできないので、自分のとらえ方を変える。(アドラーの心理学にも、それは自分の課題ではなく相手の課題だと捉える、と同じことが書かれていました)もしかしたら、最初に私が書いた「尊重するけれど無関心でいることが逆に支援なのだ」、フランス人の友達がいう「それは相手の価値観でしょ。私はそう思わないし興味もない。」の心構えかもしれません。

2つ目は、自分のことからで感情が揺らいでいるならば、「悲しかったり、苦しかったり。。。感情があるのは愛情があるから」と考える。まずは自分の愛情を感じ、心臓に手をあてる、パイプを通じてその感情への相手に愛情を流す。ちょっと祈りに近い感じですね。
どちらにしても、自分でその状態を認識・確認し、その心の状態を受容することが大切。

いつも超速でSchooセミナーをグラフィックレコーディングしてくださっているネコっちさんのTwitterを共有します。
ここに沢山のヒントが描かれています。
ネコっちさん、いつもありがとうございます。

本田晃一さんの著書もご紹介します。

尊重するけど無関心なのが支援

情報化社会の今、お会いしたことがない方々とSNSでつながることができたり、知的好奇心が満たされたりする半面で、
その裏には感情を持った人間が存在しているのですから、トラブルがないとは言えません。
そんな”感情化された社会”の中で全てのお気持ちを受容し、
そしてまた、自分のお気持ちを表出することは無理ですし、
自分自身をヘルシーな状態に保てません。

相手の意見や感情を、尊重するけれど、無関心でいるのは、むしろ相手や自分にとって支援になるのだ、
そう思ってみると、心がすっと溶ける気がしてなりませんでした。

長い文章を読んで頂き、本当にありがとうございました。
私のnoteが誰かの心にストンと落ちて、何かを残すことができれば、これほど幸せなことはありません。
雨が続く中、感染者が増える一方で、心もちょっと沈みますが、
無関心でいるのも自分や相手にとっての支援です
どうぞ素敵な休日を過ごしてくださいね。


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