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【八幡宮の謎に迫る⑦】なぜ、奈良の「石清水八幡宮」は歴史から消されたのか?<後編>

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見えない世界を伝える神社ナビゲーター
市口哲也です。

京都と奈良の二つの「石清水八幡宮」の創建の歴史については<前編>をお読みください。


政治的な背景

日本史の年号の語呂合わせで
・なんと(710)立派な(きれいな)平城京
・なくよ(794)うぐいす平安京
と暗記した人も多いと思います。

奈良の「八幡神社(元石清水八幡宮)」の創建が807年
京都の「石清水八幡宮」への遷座が859年
で、
奈良時代(平城京)から平安時代(平安京)への「時代の転換期」でもありました。

奈良時代には、天然痘の流行や災害から国を守るために、聖武天皇が仏教を深く信仰し、東大寺を総本山とする国分寺や国分尼寺を全国に建立し、現代でもシンボル的な存在の奈良の大仏が作られました。

このとき「八幡神(やはたのかみ)」は大仏建造協力の神託により、東大寺の鎮守神となり、手向山八幡宮が創建されます。

しかし、聖武天皇が亡くなった後、宇佐八幡宮の神託を利用して、僧の道鏡が天皇になろうとする事件が起こるなど、仏教勢力の政治への影響が大きくなります。

また、聖武天皇は「八幡神(やはたのかみ)」と習合(結合)したと考えられ、祟り(たたり)を防ぐために「八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)」の号が贈られ、「八幡神」はより一層、奈良仏教とのつながりを深めていきます。

しかし、第50代の天皇に即位した桓武天皇は、仏教勢力の影響力を排除するために山背国(京都)への遷都を実行します。これには「八幡大菩薩」となった「八幡神」と朝廷とのつながりの解消も含まれていたでしょう。

「やましろのくに」の漢字表記は、当初は「山背国」で、後に「山城国」になりました。「やましろ」とは「やまうしろ」の意味で、一般的には「奈良山のうしろ」が由来とされます。

歴史書「ホツマツタヱ」では、滋賀県高島市安曇川町や大津市坂本の日吉大社の辺りに、古代天皇の宮があったことから、琵琶湖から見て「やまうしろ」であるのが由来と考えられます。

平安京遷都のフィクサーとは?

遷都(せんと)は、現代でいえば首都移転です。天皇が引っ越して、住まいである御所を建てれば、遷都できるわけではありません。朝廷の機能を移転し、貴族や役人だけでなく、都に住む多くの人たちが生活できるインフラの整備も必要です。

そのため、遷都の最大のネックは資金といえます。この時代、短期間に遷都を何度もしているため、簡単に遷都できるようなイメージがありますが、そんなことはありません。

平安京への遷都には、あるスポンサーが存在したといわれています。ここからは平安京遷都の背景について解説していきます。

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